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涼しい風が吹いている休日は、庭に出て草取をすることがあります。草取りのなかで苦手なのが、「スギナ」です。取ってもムダ!という感じです。根っこから取ろうと土を深く掘っても、途中からプツリと簡単に切れてしまいます。
スギナは、酸性土壌を好むようなので、我が家の庭は絶好の繁殖地です。「こやつめのサバイバル戦略というべきか繁殖戦略は、なんとうまくできているのか、う~む!」と腕を組み感心しつつも、手を焼いています。
さながら、トカゲの尻尾切りみたいなもので、本体はまるでダメージを受けません。人間たちに手折られることを想定しており、プツリと取られたがっているようにさえ見えます。しぶとい奴だなと思うのですが、反面、こんな風に生きられないのか、と少し羨ましくもあります。まるで、幾度も幾度も傷つけられても、「どっこい、生き抜いてやる!」と言っているかのようです。
ところで、スギナの生存繁殖戦略は、二つあります。一つは、地下茎から芽を出して増えるというもの。光合成をしてつくった養分を地下茎に貯えて、その養分を使って芽を出させるのです。それゆえ、スギナは取っても取っても生えてきます。
もう一つ。スギナは胞子茎を春先に芽生えさせますが、それが「ツクシ」です。ツクシの頭から出てくる緑色の粉のようなものが胞子です。この胞子は風に乗って遠くまで飛んで行きます。飛んでいった先で水分を得ると、胞子は発芽します。
やがて、約2mmの葉のような形のもの(前葉体)になりますが、前葉体にはメスとオスがあり、メスの前葉体には卵が、オスの前葉体には精子ができます。そして、水があると精子は泳いでいって卵と受精します。この受精卵が育つと幼い植物になり、それが大きくなったものが「スギナ」です。ちなみに、杉の樹形に似ているので、スギナと呼ばれているみたいです。
昔々の大昔、すべての生物は水の中から生まれたことは、誰もが知っていることですが、最初に陸に上がった植物は、シダ類と考えられております。スギナは、このシダ植物に属します。このスギナの繁殖の仕方、つまり、「精子が泳いで卵と受精する」ということは、かつて、水の中に生活していた頃のなごりだというわけです。
スギナの繁殖力の強さの秘密を知りたくて、調べてみたら、3億年前の原始の頃の繁殖の仕方を覗きみることができるというのですから、本当にビックリです。ちなみに、人間の繁殖の仕方も、水に近い液体の中で、精子が泳いで卵と受精するんですからねえ。また、心のどこかに、海を見るとなつかしい気持ちになるのは、水の中で生活していたなごりなのかもしれませんね。
ところで、スギナは「難防除雑草」の一つだそうです。なんだか、私自身も、家族にとっての「難防除雑草」なのかもしれません。尤も、人類も、他の動物たちからは、「難防除動物」と思われているのではないでしょうか。地球温暖化がすすめば、駆除される?!可能性はありますが、さて、生き残れる動植物はなんなのでしょうか?
これは2008年4月に科学雑誌Nature Newsに載った記事です。また、5月に千葉市にて、日本地球惑星科学連合の2008年大会があったようです。その折、渡辺満久教授(東洋大学)が、再処理工場の直下に活断層が通っているという研究結果を発表しています。
六ヶ所村と言えば、ウラン濃縮施設などの非常に危険な施設が、軒並みに建っています。ここに、M8級の地震が起きら、う~ん、考えてみただけでも空恐ろしい! たぶん、日本は全滅ではないでしょうか。沖縄くらい遠ければ、生き残れるのだろうか。
昨年7月に、柏崎刈羽原子力発電所が、想定外のM6.8級の地震に襲われたことはまだ記憶に新しいと思います。元の想定は、確かM6.5級で、それで耐震設計されていたのですから、全国の原子力発電所はみな同じくらいで、想定が甘いと考えねばなりません。
人知などでは測れないくらいな脅威が、いつでも起きるのだと、中国四川の地震が教えてくれています。石油の価格上昇で、原子力発電がまたしても最評価されるようになりました。しかし、地震国日本では、危険度が高すぎます。枕を高くして眠ることができません。でも、こんなことを書くと、クータラクータラとよく眠っているくせにと誰かに言われそうです‥。
なぜ危機意識の低い人たちばかり揃っているのでしょうか。私ものんびりやですが、そんな私でも原子力発電に対しては過敏に反応しないわけには行きません。この記事、できたらコピーして友だちに転送してほしいところです。
ところで、最近は過疎の村というよりは、「限界集落」という表現が注目されています。長野大学の大野晃教授が言い出したもので、「65歳以上の高齢者が集落人口の50%を越え、独居老人世帯が増加し、冠婚葬祭など集落の社会的共同生活の維持が困難な状況におかれている集落」のことです。
役場のHPによると、東栄町の人口は2006年は4368名で、65歳以上は1939名。高齢者は約44%です。子どもが増える可能性は低いらしく、去年の3月に小学校が廃校になっています。
さて、大きな屋敷で一人暮らしをする高齢者たちが増えており、この地区の中心部を散歩していても、人気(ひとけ)がなく、車と行き交うことも少なく、昼間からひっそりとしています。また、サルやイノシシが繁殖して田畑を荒らすので、高圧電線が張りめぐらされています。「昔はサルなどほとんど見なかったが、今は人間よりも、サルの数のほうが多くなったよ」と言う。
東栄町は「限界集落」とは言えませんが、それが現実的な問題になっていると考えられます。ちなみに、インターネットで「小学校が廃校」と検索すると、167000件も出ました。また、国土交通省によると、限界集落は全国の過疎指定地域の12・7%に当たる7873集落あるという。このうち、人が住まないので消滅状態となる恐れのあるのが、2650集落。10年以内に消える可能性があるのは422集落という。
しかしながら、都心の荒廃というものもあります。東京都心でも小学校が廃校になっています。駅前のシャッター街はどこに行っても見られるものです。そして、心の荒廃という問題も増えています。
私たちの社会が、いたるところでひずみ軋んでいて病みつつあるのでしょうか? 弱者を置き去りにし地方を切り捨てて、巨大企業だけが繁栄している‥‥。このひずみが、やがて「大地震」を引き起こすのではないかと考えると怖いものがあります。
「国やぶれて山河あり」という杜甫の詩がありますが、現在では、次のように言えるのではないでしょうか。「故郷の山河やぶれて、巨大企業の国際競争力つき、一握りの資産家うるおう」
なお、「過疎ネット」というウェブサイトを見つけました。東栄町が載っています。
http://www.kaso-net.or.jp/map/aichi.htm
大災害が続いている。四川省の地震で生き埋めになっている人が2万5千人はいると報道されている。詳しくは以下をクリック。
http://japanese.cri.cn/81/2008/05/13/Zt1@117892.htm
なお、調べてみたら成都の最低気温は17度とあり、そんな中で冷たい雨が降っているのならば、生き埋めになっている人たちの体熱は奪われている。一刻も早く一秒も惜しんで、なりふり構わず助けださねばならないはず。
猫の手も借りたいくらいな状況にいながら、中国政府はなぜ外国の救助活動を受け入れようとしないのか。人命を大切にしている政府とはとても思えない。ミャンマー軍事政権とて同様である。
(注・現地音を尊重するという意味で、ビルマではなくミャンマーと呼んだほうがよいと考えて)
ところで、こんな時期に、愛知県内にある活断層で直下型の地震が発生した場合の被害を想定したものを発表している。その活断層とは「猿投―高浜断層」で、震度7.6と想定すると、11000人の死者で30万棟が壊れるという。これもネットサイトを調べてみたら、な、なんと我が家はその活断層の真上である。
この活断層、すでに活動期に入っているとみられているのですから、明日、地震が起きても不思議ではない。その死者の一人に自分がなるか、あるいは自分一人が生き残って、家屋の下敷きになって冷めたい雨に降られているか‥‥、大変に怖い発表です。
しかし、このような発表はどしどしとしたほうがよい。人々に危機意識を持たせる必要があります。そして、戦争なんぞしている場合ではないと、思い知らせる必要があると考える。
世界中の国の軍事費をせめて1割でも削減して、そのお金を災害と貧困のための対策に使うべきである、というような提案をしたい。そのような機運を作り出せないだろうか? インターネットはこのようなものにこそ活用すべきだと思うのですが。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080510k0000m040078000c.html
テレビ画面に出ましたが、朝8時から翌朝の8時まで24時間連続働いて、その15分後からまた働いており、4日間で80時間働いたこともあったようです。それでは寝ていない!? 風呂に入っていない? 食事は摂ったのか? と尋ねてみたいような働き方です。彼は就職氷河期にいた人で、やっと正社員になれたのだからと、苦しくても頑張って働こうとしたようです。
この3つのタイプは、超真面目で完ぺき主義的になってしまう傾向があります。一つのミスもしないように気を張り詰めており、手抜きなどとてもできないほうです。命じられたそのまま忠実に仕事を遂行する気質で、自己流に変えたり、適当にやりすごすことはありません。また、気分転換ができにくい人たちです。帰宅しても明日の仕事のことばかり考えて寝つけず、勤務時間内も気を休めにくいのではないでしょうか。
雇用者は、自分が見ていなかったら適当に手抜きしたり、さぼっているだろうと予想しているのかもしれません。その通りの人もいます。しかし、考えられないほどの真面目な人たちがいることを知っているのでしょうか。知っていて、それをうまく利用したということはないのでしょうか。
知り合いのタイプ1は学校の教師ですが、いつも遅くまで学校で仕事をして、学期末近くになると、コタツでうたた寝しただけで翌朝いつものように働きます。知り合いのタイプ7はもっと過酷な生活ぶりです。さるところの支店長をしておりましたが、1年近くも一日3時間くらいの就寝時間しか取れず、休日も仕事に出かけて、家族は父親と顔を合わすことがめったになかったと聞いています。結局、この彼は体を壊して、その職場を辞めてしまいました。
4/29づけで取り上げているレストランの店長さん(タイプ4)も、帰宅しないままに店で仮眠をとることがしばしばあるようです。朝は誰よりも早く仕事にとりかかり、食事も外で取れないので、店の冷蔵庫内にすぐに食べられるものを入れていたみたいです。そして、部下たちが帰宅しても、明日の準備に手抜かりないようにしていたという。
こういう仕事ぶりを、トップの人たちは見て見ぬ振りをしていたのか、そこはわかりません。しかし、あまりにもむごいことです。命を削って働いている人たちがいます‥‥。
http://www.asovision.com/mirai/
その結果です。
「あなたはメリハリのないタイプ」と出ました。そして、「世間の片隅でひっそり暮らしたい・あまり目立たない・他人に害をあたえない・怠け者だ・活発に活動することを好まない」とあります。
質問に対してはできる限り正直に答えたつもりです。しかし、どちらなのか答えられない質問も多くて困りました。ついでに、他のエゴグラムの性格診断サイトが見つかり、こちらもトライしてみました。
http://www.egogram-f.jp/seikaku/index.htm
その結果としては、「あなたは粘着質タイプです」となりました。「粘着質性格のうち、堅い・几帳面・秩序を好む・精神的テンポが遅い・迂遠冗長でまわりくどい・人に対しては馬鹿丁寧で慇懃(いんぎん)」と出ました。
どちらの診断結果を見ても、私からは当たっているところはあるが、当たらないと思われるところも多しと思うのです。ただ、いろいろな側面があるので、「全てが該当しない」とは言えません。ですから、他の人たちがトライしても、「ここは当たっているなあ、でも、ここは違うなあ」などと思うではないでしょうか。
これらのものは、単に話題の一つにして面白おかしくおしゃべりするものに過ぎないと思います。まして、「自分を知る」ためのツールには成り得ないということは歴然としています。
また、トライしてみて、当会の性格診断との違いを多くの人たちに知らせることは困難だと、つくづくと感じさせられ、なんだか気力が萎えてしまいました。他とは内容的に全く違うものですが、違いがわかる人が果たしてどれほどいるのでしょうか‥。
さて、ここを読んでおられる方は、私の気質をどのように想像しているのか。想像と違っていたのでしょうか? 今回のエゴグラム診断結果を読んでも、私が何者なのかはまるで出てこないのではないかと思いますが‥。私自身も、このような結果を見て驚いているくらいですから。
「錯視」という現象にすっかり魅せられてしまい、ついに自分で錯視画を描いてしまいました。生まれて初めての試作品なので巧いとは到底言えません。もう少し動きをハッキリと出したいのですが、これが難しいのです。
「錯視1」の作品は、静止画であるはずなのに、フニュ!と少 し上下に動いてみえます。拡大してみれば(クリックすれば拡大になります)わかると思いますが、同じ図柄が連続していません。一部を変えているのです。このような錯覚をするのは、脳のほうが、全部同じ図柄だと認識したいからではないでしょうか。しかし、実際の図柄は違うので、そこで認識したいものと整合させようと働き、それで動いているように見えてしまうのではないかと‥。
実は、「錯視」という現象はまだ正確に説明できないみたいです。視覚のほうに問題があるのではなく、脳の情報処理の仕方に問題があることはわかっているのですが。
ところで、「錯覚」というものも結構、しばしば普通に起きているものです。たとえば、読みちがいです。エニアグラム講座では新聞記事などを切り抜いて、それを受講生に読んでもらうことがあります。すると、読みまちがいをする人が結構います。たとえば、「訓練」と書いてあるところを「練習」と読みちがうのです。その場合、数分前にどこかで「練習」という言葉を使っていたとか、さっき見た記事に「野球部の練習日程」とあった等々。
聞きまちがいもたくさんにあり、「空耳」という錯覚もまだ解明されていないみたいです。たとえば、「○さんはタイプ9です」と回答していたのですが、いつのまにか「○さんはタイプ4ですと竜頭さんが答えていた」ということになってしまうのです。これには困惑しています。
「錯視」も見まちがえですが、見まちがえて自分の中で何かが変色してしまうのです。そして、「思い出」というものも、よく変色してしまうものではないでしょうか。さながら古い写真がセピア色に変わってしまうようなものです。たとえば、自分のタイプを知りたい時は、子どもの頃の思い出を書き出す人がいますが、タイプを知るためのよい情報ではないことが多いんです。
「自分を知る」ことは大変に困難なことの一つです。なにしろ脳の情報処理の仕方そのものに問題があるのですから‥。主人の許しを得ることもなく、勝手に脳が動き出して情報処理してしまうことがあると思うのです。それで自己像がゆがんでしまうのです。「妄想」もその一つで、妄想を「事実」だ思い込んでしまうのはよくあることです。本当に「自分」というものほど信用できないものはない、と私などは思っています。
本当に久しぶりなんですが、 「仲間たちのつぶやき」を更新することになりました。今回は、7w8の男性に原稿をお願いして書いて頂きました。7w8の気質がよく出ていると思います。以下にあります。感想などを頂けたらうれしく思います。
http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/active/page11.htm
ところで、急遽、瀬戸内海の直島に出かける計画が持ち上がり、ジェームス・タレルさんの作品を鑑賞する機会を得ました。新潟にある「光の家」を知ってから関心を持っていたアーティストでしたが、今回、作品を観て、自分の予想以上だったことをご報告したいと思います。
直島の地中美術館には、彼の作品は3つありましたが、「オープンスカイ・ナイトプログラム」がなかなかに見せます。「光」を45分間、知覚するというもので、いわば、色の「錯視」また「残像・同化」といったものを利用して、「光」を知覚させようとする「体験型アート」です。このプログラム、金土の日没時しかやっておりませんし定員は25名です。予約がなかなか取れないようで幸運だったと思います。
タレルさんは自分のアートについて、次のように語っています。 「私は光と人間をテーマにしている。興味は人間の光に対する感じ方なのです。自然光をデザインするというのが私の究極のテーマです」
「私が思うには野球を観戦するのとプレイするのとの違いです。私がしたいのは、貴方に体験をさせること。野球を見ているのではなく、実際に野球をしてどうなのかを、貴方がそれをどう感じるのかということを体験させてあげたいのです」
動画サイトのYouTubeにて、「James Turrell」と検索すれば、彼の作品がどのようなものか少しはわかるのではないでしょうか。
http://www.youtube.com/results?search_query=James+Turrell&search_type=
この「錯視」に興味が沸いてウェブサイトに何かないかと探していたら、以下のページが見つかりました。それらの作品を観てもらえれば少しはわかっていただけると思うのですが‥。
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/#allpage
たとえば、私たちは簡単に錯覚を起こすようにできていると、つくづく実感するのではないかと思います。本当に真実が見えているのかと。これは「視覚」だけでなく全ての感覚器にも起こり得ることだと考えざるを得ません。果たして、自分の目は目の前にあるものを正確に映し出しているのだろうかと疑問になってきます。または、日頃からいろいろなことを自分は思い違いしているのかもしれない、単なる妄想なのかもしれないと考えてしまうのです。
既に知っている方も多いと思いますが、新鮮な驚きが得られるのではないかと思い、ぜひ皆さまにご紹介したいと載せています。
もしも、それが当たっているならば、限られたものしか食べていない可能性があります。たとえば、お茶漬けだけを食べていたならば、「この子はお茶漬けしか食べない、偏食で困っています」と母親が受け取り、それを知り合いたちに語っていたとしたら‥。それを小耳に挟んだ子どもは、「自分は偏食なんだ」と思い込むこともあるかもしれません。
そんな話をしたら、「ほんと! そうかもしれない」と、この受講生は驚いた様子。「そういえば高校生くらいから外食するようになって、何でも食べられるようになりました!」と思い出したようです。「母親は本当に料理嫌いでしたから‥、限られたものだけを食べるしかなかったんだと思います」 そうとなれば、「偏食」とは言えません。
「自分は好き嫌いなく何でも食べられると思っていました!」と語ってくれた受講生もいました。ある日、生まれてはじめて他家で食事をしたら、「食べられないものばかり並んでいた!」と言います。どうやら、母親が子どもの好むものばかり作っていたようです。
つまり、ある環境にいると「自分は偏食」となるかもしれません。別の環境にいると、「自分は好き嫌いなく何でも食べられる」となってしまうことも考えられます。それらは、他家のメニューと味を知って比較してみなければ、「単なる思い込みに過ぎない」のではないでしょうか。
そして、「性格」とか「気質」というものも、これと同じように考えることができます。「自分は神経質だ」とか、「私のエニアタイプは、タイプ5だ」などという自己認識も、「単なる思い込みだった」ということは、しばしばあります。
なお、このようなことは、国にもあります。たとえば、「中華思想」です。中国(中華)は、世界の中心で、その政治体制や文化や思想は最も価値が高く、漢民族は最も優秀が民族で、他の民族は教化せねばならない対象で、主導していかねばならないという思想です。
最近のニュースを知ると、中国はいまだにこの思想を色濃く持っていると考えざるを得ません。冷凍ギョーザ事件でも、その対応ぶりからは自己中心性が感じられると思うのですが、みなさまはどう思われるのでしょうか?
ところで、ご存知のように、漢語に「東夷とうい」というものがあり、彼らから東の国である日本や朝鮮のことを指しています。「西戎せいじゅう」は西の地で、チベットなどの遊牧民のことです。「北狄ほくてき」は、北の蒙古民族などで、「南蛮」は東南アジアやインド、ポルトガルも入るようです。
「夷」・「戎」「狄」「蛮」は、全て野蛮人の意で、外国人を蔑視する時に使う漢語であることはよく知られています。日本も倭の国の時代に、熊襲(くまそ・九州)とか、蝦夷(えぞ&えみし・アイヌ民族)と呼んでいたようです。
そして、「くまそ征伐」とか「えぞ征伐」という言語を使っていました。この「征伐」という言葉ですが、大国の傲慢性が如実に出ているように思われます。日本も、倭の国の頃から相当にジコチューな国であったと思わざるを得ません。
明治に入り、西郷隆盛が「征韓論」という言葉を使っていましたが、それは「日本書紀」にある記述から来ている「三韓征伐」に端を発しています。中世での秀吉の朝鮮出兵にもつながっており、「朝鮮は、三韓征伐より日本の属国で支配する権利がある」という考え方です。なお、この「三韓征伐」、史実ではなさそうです。
現在ならば米国は、○○○征伐をしたということではないでしょうか。それは、中国とチベット、インドネシアと東チモール、ロシアとチェチェンみたいな関係と言えるでしょう。いつの時代も、小国・小民族が迫害されて辛酸をなめています。
さて、身近にいる人々の中にもジコチューの極みみたいな人物がいて、「(自分には)愛がある」などと語っていたりします。国家にもジコチューの極みみたいな国があると考えられます。「(自分たちの国は)人権擁護している民主主義の国、自由の国」だと力説しているように思われるのです。
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