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この映画の脚本を担当しているデビッド・ヘアさんがインタビューに答えています。
「英語で製作するのはシュリンクの希望だった。それにこのテーマはドイツに限ったことではなく普遍的なものだから、英語でいいと思った。…中略…実際に行われた裁判を完全に忠実に再現した。あの部屋にいた人たちは、当時の裁判に出席していた人たちで、エキストラとして演技していたんだよ。裁判官たちは、退職したドイツ最高裁の元判事たちだしね。スティーブンは、出来る限り現実に近づけることを要求する監督なんだ」。
ここを読んで、映画はなぜドイツ語ではなく、英語なのか、という点で私も誤解していたことが分かりました。でも、ドイツ語にしてほしかったと思います。
もともとアメリカなどでは吹き替え版ばかりだと聞いています。尤も、日本も吹き替え版しか見ないという人が多くなったみたいです。他の国や他の人たちを知りたいとか、理解したいという思いが減っているように感じられて、とても残念に思うところです。
ところで、上記からは、スティーブン監督は完璧主義的な方だったと考えられます。優等生気質(714)の人と、そのウイングを強く持つたちにある傾向です。
ついでながら、ミヒャエルを演じたデビッド・クロスさんがインタビューに答えているものを転載します。
「マイケルが彼女に惹かれたのは、彼がとても好奇心旺盛な少年で、全然違う世界に住んでいたからだと思う。彼女は労働者階級で、彼は中流階級の子息だ。あるきっかけで彼は彼女にとても興味を持ち、すぐに恋に落ちる。そして互いに必要な存在になっていく。彼にとっては年齢なんて関係ないんだ」
欧州は身分社会だということを日本人は忘れがちです。そして、日本は「訛り=出身地」ですが、欧州などでは、「訛り=出身地=出身階級」なのです。
たとえば、オバマ大統領は黒人なのに黒人特有の訛りがなかったので、白人からの支持も得られたのだという記事が載っていたことがあります。
また、ヘップバーンが主演した「マイ・フェア・レディ」という映画を知れば、そこら辺りが理解できるのではないでしょうか。ちょっと古い映画ですが、今でも身分社会であることに変わりありません。
ロンドンのハイドパークの横にMayfairという高級住宅地があります。主人公のイライザ(ヘップバーンが演じた)は、花売りで、下層階級の出身のために、MayfairをMy fairとしか発音できません。
住んでいるところがMayfairでも、下層だとまる分かりなので、娘をほめているように見せて、実はバカにした言い方が My fair ladyなのだそうです。
このイライザの出身地は、発音上の特徴として[ei]と[ai]の区別がつかないこと、Hの音を落とすなど)から、「マイフェア」になることをひっかけています。
日本でも地方訛りはなかなかなおらないもので、出身地がおよそわかります。しかし、訛りから身分がわかってしまう、それがハンナたちの生きていた社会です。また、デビッド・クロス君は、階級意識が強いので、あのような感想を述べたとも考えられます。
このように、映画で他の国のことを知ることができますが、エニアグラムの研究資料にもできます。しかも、楽しみながら各タイプの特長までわかるのですから、映画鑑賞は欠かせません。
この映画の主人公であるハンナとミヒャエルは、愛し合っていたのでしょうか。朗読のテープを送り続けたのは、ミヒャエルがハンナを愛していたからでしょうか? →④
ここの答えも簡単です。二人は、男女間にある愛情関係というものはなかった、というのが正解と言えるでしょう。まず取り上げられるのは、ハンナは出会った頃から死の直前まで、ミヒャエルのことを「坊や」と呼んでいたことです。
女性が年下の男性を愛してしまったならば、「坊や」とは呼びにくいと考えられます。これとは逆で、男性が年下の女性をベイビーなどと呼んでも、それは愛情表現になりうるものと考えられます。
この社会は男性優位社会であり、「主たる男に従う女」になっています。交際している男女で女性が男性より年長の場合は、かなり気を使っている、というのが一般的な傾向としてあると考えられるからです。
また、原作では、ミヒャエルが朗読テープを送った動機について何も言及していません。ハンナへの愛情からだとは書いてありません。「自分が丁度読みたいと思っているものをハンナのために朗読した」ようです。
そして、テープは送ってもハンナには手紙を書いていません。「ハンナとはお互い近くて遠い存在だったからこそ、僕は彼女を訪問したくなかった」
ミヒャエルは、このような一方的なつきあいを、「気楽でエゴイスティックな関係だとわかっていた」とあります。また、「僕は彼女を小さな隙間に入れてやっただけだった」とも。
また、ハンナの死によってショックを受けたり、絶望的にもなっていません。これでは愛の物語りとは言えません。もっとも、なんらかの親愛の情はあったようなので、これを愛の物語と呼べないことはないと思います。
邦題が「愛を読むひと」になっていますが、これは配給会社が考えたもので、とかく日本社会では叙情的なタイトルが好まれる傾向があるから採用したのでしょう。
さて、他の人たちがブログに載せている文章(青字)を以下に転載しています。
自分と照らし合わせて考えると、どうして21も歳の差がある男女が、肉体関係にまで発展するのかが理解できなくて、違和感がありました。それと、「愛をよむひと」というタイトルだけど、主人公はただ雰囲気で本を朗読してあげただけで、愛などないのに、変だなと思いました。
レイフ・ファインズ(ミヒャエル役の俳優名)の献身的な姿に心打たれるけど、彼の行動は今はやりの草食系とかじゃなく熱愛だな。あれだけ一途に思い続ける姿はなかなか無いよなぁ。
三十代半ばから見れば子供でしかない未成年に手を出す女なんて、禁断の愛などと言ったところで、とうてい受け入れがたくって。
文盲(illiteracy)を隠して生きてきたハンナが、人との接触を極度に嫌うのは自然なことであろう。圧倒的な力関係である「坊や」に対してなら行動できる、というのは、(人付き合いの出来ない男と幼年の女の子という風に)男と女の立場を変えた性犯罪が頻繁に起きている事実を考えれば、想像に難くない。
年老いたハンナに会いに行ったマイケルが、彼女の手を見てふと浮かべた表情を気付いてしまうシーンもまた切ない。愛していたからこそ言えなかった真実。ずっと愛していたのに、年の差を越えられなかった現実。
少年の時、ひと夏を過ごしただけの女性をそこまで想い続けられる切なく一途な愛。変わらぬ愛とはこういうことを言うのかもしれません。
年上といっても、21歳も年上、まわりからすれば親子みたいなものです。フツーに考えるだけで、なんてうらやましい(笑)
身寄りもなく、彼女の秘密を考えたら、苦労の絶えない人生だろうなって思うけど、ひとりの男性が、ここまで想い続けてくれたなんて、シアワセな女性だな~と思う。
「純愛映画」みたいな宣伝をされているけれど、僕はこれ、愛というより、「罪」の映画なんじゃないかな、と感じました。
ハンナに朗読テープを送り続けたのは、多分同情?しかしそれがハンナに期待を持たせてしまったことに気づき、煩悶する。だから手紙の返事も書けなかったのだろう。
ハンナの自殺の原因を探ってみます。前回のその5で書いたように、7年もの間ハンナはミヒャエルから送られてきた朗読テープを聴いて文字の読み書きを学び、習得していました。
原作から→「ミヒャエルがハンナの独房に入ると、そこには本棚があり、ナチの犠牲者たちの本と、ルドルフ・ヘスの伝記、アイヒマン裁判、強制収容所などの研究書がありました」
所長が語ります。「もう何年も前に、強制収容所についての一般的な図書リストを手に入れて欲しいと頼まれました。1、2年前には、強制収容所にいた女性たち、囚人や看守たちについての本を教えてほしいと言われました」
なお、非識字者であったハンナには、働ける場はそれほどなかったと考えられます。収容所の看守を募集していると誰かから聞いて、すぐに応募したと考えられます。
原書では、「ジーメンスで職長になれるという話があったにもかかわらず、親衛隊に入ったのは本当か?」と裁判で質問されています。
職長になると文字の読み書きが必要になり、非識字者だと知られてしまうので、辞めて他の職を探す必要があったのですから。そして、その職を得るためには、親衛隊に入るのが条件だったのではないかと。
さて、新聞を読めず、友人もひとりもいない、孤独に生きていたとしたら、その収容所がどういうところなのか、ナチの親衛隊のことも事前に知ることはできるのでしょうか。答えはノーです。
しかし、文字が読めるようになり、ハンナはナチ政権のしたことの意味をしだいに理解できるようになった可能性があります。
当人の読書歴をみれば、何に関心があったのか、どの程度まで物事を深めて観られるようになったのか、およそ測れます。ハンナは、自分がそれに加担していたことまで悟ってしまったのではないでしょうか。そんな自分を知りますが、それを知って、はたして生きていけるのでしょうか。
ここまで辿って、急に思い出した児童文学書があります。上野瞭著の「ちょんまげ手まり歌」です。30年前くらいに読んだのですが、ずっと忘れないままでいたようです。
ちょっと書き出してみます。
「おみよ(主人公の少女)、みんな、なにも知らんからこそ、それで幸せじゃったとも言えるんじょぞ。おまえは自分の国の恐ろしさを知ってしもうた。知ってしまうことは、おみよ、人間を大きく育てるが、それだけ苦しみが増えることじゃぞーーと、山んば老人はそう言うと、ふいに姿をけした」
上野瞭さんは、無知ではいけない、知ることで不幸になったとしても、辛いことになったとしても、それでも知ろうとする人間になってほしい、という願いをこめて、この物語を書かれたのではないかと思います。
それまで、「知る」ということは私にとっては、「面白いこと」だったのですが、それだけではないと教えてくれたのがこの本です。なお、上野瞭さんは8年前に亡くなられています。
ちなみに、私の予想した自殺原因は当たっていたのでしょうか? それとも間違っていたのでしょうか? あなたの予想はどんなでしたか?
以下の青字は、他のブログにある感想文です。
ハンナはやっと面会に来てくれたマイケルを見て、それが愛からではなく義務感からということに気づいてしまったため、誇り高い彼女は死を選ぶしかなかったのだろう。
知性を磨いた彼女に、ナチスの元親衛隊という十字架を背負って、一般社会に戻ることはかなりの重荷であろう。頼れる「坊や」は、もう坊やではなく、時代の力関係は完全に崩れている。残された道は、これ、だったのだろう。
朗読のテープを送り続けたのも、愛に基づくものではなく、かつて愛した女性に対する責任感・義務感の表れではなかったのか。こうしたことが、遠因となってハンナを自害に追いこんだのかもしれない…。
多分、本を読むことによって、彼女の中の何かが初めて完全に「目覚めた」のでしょう。そして自分が300人を殺したということの意味を、初めて深く考え始めて…考えて、考えて…そして、収監されて24年後、ようやく釈放されるというその前夜、彼女は自ら命を絶つのです。
今夜は、問い③を取り上げてみます。
ハンナが出所する当日ミヒャエルが迎えに行くと、ハンナは早朝に首を吊っていました。ここで質問です。彼女はなぜ死を選んだのでしょうか。ミヒャエルの好意を受け入れてもよさそうなのに、どうしてそうはしなかったんでしょうか?
映画の中ではハンナを迎えに行くと、彼女は既に亡くなっていて、所長と会話をしています。彼女がずっとどんな様子だったのかミヒャエルは尋ねています。
原作にて、所長が語っていることです。「まるで自発的にここに来たかのように、規則にも自分から進んで従っていた。他の囚人たちに親切で、みんなからの人望は厚いものがありました。彼女には一種の権威があって、彼女が決めることなら、みんな受け入れました。数年前、彼女が投げ出してしまうまではね」
「それまでの彼女はいつもきちんとしてスマートで清潔好きでした。ところが彼女はその後たくさん食べ始め、めったに体を洗わなくなり、肥満して匂うようになりました。中略 外見や服装や体臭などが意味を持たない世界に引きこもった…」
なお、ミヒャエルが朗読テープをハンナに送るようになったのは服役後8年目で、18年目に恩赦になりました。所長の言う「数年前」が3年前だと仮定すると、8年目から15年目の7年間は、ハンナはかなりキチンとした人で人望もあったみたいです。
ところが死を選ぶ数年前から、ハンナは劇的に変化してしまったのですから、彼女が死んだ原因に、ミヒャエルは直接関わっていないことになります。
その後、所長さんがミヒャエルに、自分の予想を語っています。「何年も孤独な暮らしをしていると世間が耐えがたくなってしまうものなのかしら? 住み慣れた場所から世間に戻るくらいなら、自殺したほうがましなのかしら?」
所長の予想は当たっているのでしょうか? なお、映画にもこのシーンはあり、ハンナの変化にエッ!と気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんね。以下は、他の人たちがブログに載せていた感想文です。
独房での苦労と精神的な困惑は想像できたが、すでに生きる力と精神をコントロールする力は表情から消えていた。
やっと、30年?ぶりぐらいに、再会。お互い、気まずくて・・・彼女は、彼の反応に失望??してしまい、刑務所の中で、自殺してしまう。
年老いたハンナと再会してもやはり「キッド」とガキ呼ばわりされるのは、その頼りなさのためだろう。だとすれば自殺されてしまうのも無理ないのだ。
これらの感想は当たっているのでしょうか? また、あなたの予想はこことは違うのでしょうか? 続きは次回にします。
今日は、問いの②を取り上げてみます。
ミヒャエルはハンナが文字の読み書きができないことを知っていたので、彼女を助けることが出来たはずですが、そうしませんでした。なぜなんでしょうか? →②
ここを説明するのは簡単ではありません。映画では、ミヒャエルは留置されている彼女に会いに行きましたから、真実を告げて闘うべきだと彼女と話し合うつもりだったと考えることもできます。でもその場から立ち去りました。
その表情からは迷いとか葛藤みたいなものが少し見えたように思いますが、はっきりとしたものは出ていません。でも、その後にミヒャエルは父親に相談に行っています。
ユダヤ人の強制収容所にもでかけています。すぐに助けねばというふうになっていません。慎重な気質だと考えられるところです。
となると、前回のその3で絞っているように防御タイプ147の可能性は高くなります。このタイプは怖がりで小心ですが、だからこそ慎重という気質を備えています。
ここは映画だけでは確かではないので、原作を読みました。しかし、そこでも曖昧でよくわからない表現が続きます。なんとか次のようにまとめましたが…。
ミヒャエルは、自分が助ける行動を起してハンナの刑が軽くなったとしても、その後のハンナの人生まで考え出すと、どのような行動ができるのか、何が正しい行動なのかもわからず、ずっと自問し格闘し悩み続けています。
ハンナの犯した犯罪の恐ろしさとか、どのように裁けるものなのかと、さまざまに脳裏に浮かんでいます。そして、ハンナを理解しなくてはという思いも強いが、ハンナと話すことができなくなり、心は硬直して、ついにはハンナと関わりを持たない方向に落ち着いて行った…ということらしいのです。
さて、他の人たちがブログに載せている文は以下です。(青字は全て)
彼が裁判で、なぜ彼女を救わなかったのか全く分かりませんでした。
男は何を考え、何をしようとしたのかよくわからなかった。男の視点で物語は進むが、彼の意志が強く描かれていない。
裁判を見守るマイケルは、彼女が自分が不利になるのを承知で、ある“秘密”だけは隠し続けようとしていることに気づく。その秘密を知るただ一人の者として、マイケルは葛藤し、答えを見い出せないまま苦悩を深めていくのだが…。
そもそもマイケルは誠実であっても所詮ハンナの傍観者止まりで、映画でも文字通り語り部・READERに過ぎなかった。
唯一証言できそうな人間は事実上マイケルしかいなかった。彼はできなかった。彼もまた“秘密”があり、その葛藤で立ち往生してしまう。ハンナは生涯、自分の弱点に苦しむが、マイケルもまた悔恨から人嫌いになり、妻に離婚され、娘とも疎遠になる。
マイケルは彼女を救おうと思えば救えます。彼の学校の教授も「君は法に従う義務がある」と言いますが、彼は法に従うよりも彼女の意志に従ったのでした。自分で決めたこととはいえ、それによって無期懲役を言い渡されるハンナの姿を泣きながら見つめるマイケル。
ちなみに、監督のスティーブン・ダルドリーさんがインタビューに答えているものがあり、転載します。少しはスッキリできるかもしれませんね。
戦争が次の世代にどんな影響を与えたかというのが本作のテーマだ。ミヒャエルはハンナが戦犯であることに衝撃を受けるが、彼女を切り捨てることができない。かといって声を大にして彼女を救うことにもためらいがあった。そのことで罪悪感に影のように覆われて生きていくんだ。身近な人との間にこういう体験をしたのが、作者のシュリンクの世代なんだ。
ミヒャエルの動機を明確に書き出している文章は原作でも見つかりませんでした。でも、このような設定をした原作者の気質がわかれば、少しはハッキリさせられるかもしれません。が、今回はここまでです。
さて、問①です。ハンナが無期懲役刑を選んだのはどうしてなのか? と受講生たちに尋ねると「わからない」と言う人が多かったんですが、あなたにはわかるでしょうか?
ここは簡単です。ハンナは、文字の読み書きができないことを恥じていたからです。それは誰にも知られたくないもので、むろんミヒャエルにもです。
また、車掌から事務の仕事に栄転されるわかっているのに、すぐに辞めてしまったくらいですから。
そして、彼女は天涯孤独らしく見えます。原作にもハンナに家族がいたのかは全くかかれていません。ハンナの青春期は戦中と戦後で、社会全般が殺伐としており、そんな中では学ぶどころか職を得ることも容易ではなかったと考えられます。
まして、読み書きできないのでは職を選ぶことはできず、就けたとしても過酷な長時間労働で、しかも不安定な職だったのではないかと。生活に余裕は全く無く、生きていくだけで精一杯だった人なのかもしれません。
そんな予想が立ちます。ハンナはいつも不機嫌そうにしており、よくいらだっていましたから。疲れており、不安を抱えており、学ぶようなエネルギーも、時間もお金もなかっただろうと。
たぶん、職場を転々としていたと予想します。このように舞台背景を知らないと、的外れなことを考えてしまう怖れがあります。
さて、羞恥心が強すぎる気質だと考えられるので、ハンナは「防御タイプ174」と判定できます。またの名を優等生気質といい、一番になりたがり向上心が強くて負けず嫌いです。
そのような気質であれば、文字の読み書きができないなど恥ずかしいというだけでなく、強い劣等感に襲われるもので、決して他の人に知られてはいけないものになるでしょう。また、自分に自信をつけることができず萎縮してしまい、疎外感が強く孤立感みたいなもので一杯だったろうと予想されます。
むろん、同じタイプでも個々人で羞恥心度は違うはずです。ハンナは度外れて強すぎると言えるくらいです。なにしろ選択できるのは、無期懲役と4年の刑期で、無期のほうを選んだ人なのですから。
さらに、罪を押し付ける4人の女性たちと対決しないままです。つまり、事実を明らかにしようとする気持ちよりも、羞恥心のほうが強かったのですから…。
でも、裁判ではそれ以外のことでは、ハンナは率直にありのままに、かつ自分に不利になるようなことにも正直に答えていました。ところで、映画の感想をブログにまとめる人たちはよくいます。青字の文です。
ヒロインが、自分が罪を背負ってまで、なぜ文盲を隠したがるのかも理解できなかった。文盲なのは彼女の責任ではないし、努力すれば克服できるはずなのに。
「文盲」って、自分の人生をかけてまで隠さなければならないことなんだろうかってこと。時代が違うからか、土壌が違うからか? どうも、腑に落ちないところなんですけど・・・。
彼女は実はそれを恥じていたのでは無いのです。彼女が本当に恥じていたのは“沢山の人を殺めた”という事実だったのです。しかし彼女はその重圧に耐えられず現実を直視出来ないが故に、「読み書きが出来ない」という事を自分の最も恥じている事に「仕立て上げ」、自分が本当に恥じている事の上に置く事によって、本当の恥を隠そうとしたのです。
裁判って刑を軽くしてもらうためにはどんなウソでも付かないといけないのに、その逆をわざわざやるんだから、ハンナは相当なプライドの持ち主だなぁ、馬鹿だなあという感じになってしまった。
ハンナは裁判で記名せず、自分が犯罪のリーダーだと認めてしまう結果となったのは、重大な罪状を一身に背負わされる事よりも非識字者という事実を公けにするほうが愚かだという意識があったからなのだろうか?
タイプが違うのでわからなかったのだろうと思われる感想文もありますが、なにを言っているのかわからない文もあるように思います。そして、あなたに近いものはあったのでしょうか?
追加です。とても興味深いブログ記事があったので、転載しています。この方の感想文が一番面白く読めました。http://blog.goo.ne.jp/masakichi917/e/982e854203c4356ff1a195dd491fcc4d
日本の識字運動で功績のあった天理大学の故内山一雄教授の報告によると、非識字者のそれを隠そうとする心情は、一般人の想像を絶するものがあるといいます。絶えず自分自身みじめな思いで暮らさざるを得ず、役所へ行けば自分の住所、氏名を書けと言われるのではないかなと怯えて、「いや、手を怪我してますんで」と言い訳するために、始めから右手に包帯巻いていくとか、公の場へ出た途端にもう心臓がどきどきして、体が震え、識字学級で練習したときはちゃんと書けたのに、そこに行ったら途端に鉛筆が震えて書けなくなったということがあるそうです。
前回6/21の続きです。
ナチスのユダヤ人虐殺に関わった事件があり、ユダヤ人を看視していた者はハンナを含めて5人です。4人は自分たちの罪を逃れようとして、ハンナが責任者として報告書にサインをしたと主張します。
ハンナは文字の読み書きができないのでサインはできません。裁判官はそのサインがハンナと同じ筆跡なのか確かめようとします。
しかし、ハンナは、「確かめなくともよい、自分はサインした」と主張してしまいます。その結果、ハンナは無期懲役(原作では)で、他の4人は短い懲役刑を言い渡されます。
さて、あなたならば、自分が読み書きできない(文盲は差別的な言葉だとして現在はあまり使われない)ことを知られたくないので無期懲役の刑を受けるか、それよりも事実を訴え、4年くらいの刑になるか、どちらを選ぶのでしょうか。
ハンナがそちらを選んだのはどうしてなのか? と受講生たちに尋ねると「わからない」と言う人が多かった。あなたにはわかるでしょうか? →①
さらに、ミヒャエルはハンナが文字の読み書きができないことを知っていたので、彼女を助けることが出来たはずですが、そうしませんでした。なぜなんでしょうか?→②
とはいえ、ミヒャエルはハンナのために、テープレコーダーで朗読したものを吹き込んで、刑務所に送り続けます。そのお陰と言うべきか、たっぷりと時間があるハンナは文字の読み書きを学びはじめ、いつしか習得してしまいます。
次に出会うのは、ハンナが恩赦で18年の服役生活に終止符を打って出所するという知らせを受けて、ミヒャエルが刑務所に出かけたときです。
ハンナの身元引受人になったミヒャエルは、彼女のために住む家や仕事先を用意します。壁にかける絵を選ぶなど熱心で万端に準備を進めました。
しかし、当日の朝、迎えに行くと、彼女はその早朝に首を吊っていたというストーリーです。ここで質問です。彼女はなぜ死を選んだのでしょうか。ミヒャエルの好意を受け入れてもよさそうなのに、どうしてそうしなかったんでしょうか? →③
なお、他の人の感想を知りたくて探すと、次のようなブログ記事を見つけました。
「カメラはハンナをしっかり捉えているが、物語はその内面にまであまり深入りしていない。原作もそうだが、ハンナの心は、ボクらが想像することによってのみ表れる」
その通りだと思います。では、ハンナとミヒャエルは愛し合っていたのでしょうか。朗読のテープを送り続けたのは、ミヒャエルがハンナを愛していたからでしょうか? →④
映画を観て、どのような想像をするか、解釈をするのかで、あなた自身のタイプがわかります。でも、その想像や解釈は、作者たちが考えていたものと違うものかもしれません。同じ可能性もあります。
もしも、違っていたら、作者たちの思いとか狙いなどを理解することはできません。では、この作品の作者のエニアタイプは何タイプなのでしょうか? →⑤
なお、5 つ全てが正解ならば、作者と同じタイプの可能性があると思います。映画のほうをぜひとも観て頂いて、よかったら①~⑤について、あなたなりに書き留めてみては如何でしょう?
「愛を読むひと(THE READER)」は、原作では「朗読者」になっています。ベルンハルト・シュリンクという作家によるもので、ドイツ文学では最大の世界的成功を収めた作品なのだそうです。監督はスティーヴン・ダルドリー
公式ページ http://www.aiyomu.com/
映画のあらすじ …第2次大戦後のドイツのある都市。15歳の少年ミヒャエルが21歳年上のハンナ(ケイト・ウインスレット演じる)と出会います。ミヒャエルはハンナと関係を持つようになり、毎日のようにハンナの部屋へ通い詰めます。ハンナはミヒャエルに本の朗読を求めるようになり、それが二人の習慣になります。が、ある日、ハンナは突然に姿を消す…、
この映画は2008年にドイツとアメリカの合作でできた映画であるためか、舞台もドイツで登場人物もドイツ人という設定なのに英語をしゃべっています。
違和感があり、ちょっと気になります。でも、こういうことよくあります。そして、原作では主人公の名はミヒャエルですが、それの英語読みのマイケルになっています。
さて、ミヒャエルがハンナと再会できたのは、ナチスのユダヤ人虐殺に関わった人間が告発される裁判所の中です。ハンナを被告席で見ます。
裁判を見守るミヒャエルは、彼女が自分の不利になるのを承知で、ある秘密だけは隠し続けようとしていることに気づきます。
(注*なお、この先はネタバレになってしまいますから、どうぞご了解ください)
秘密とは、ハンナが文字の読み書きができないことです。それを知られたくないので、ハンナは自分にとって不利になる証言を受け入れてしまいます。そして、ミヒャエルはそれを知っているのに助ける行動を取らないままでした。
3度目にミヒャエルとハンナが会ったのは、ハンナが18年服役して出所が決まる日の数日前のことです。ミヒャエルは彼女のために部屋や仕事を用意して、その日を待ちます。しかし、ミヒャエルは、その日、ハンナに会うことはできなかった…、
さて、この映画について受講生と話し合うと全く理解できないという人が多数でした。たぶん、この映画の製作者たちとタイプが違うので、理解できないのではと思われます。理解できない人には面白いと感じない映画かもしれません。
申し訳ないが、今日は、これで止めておきますが、よかったら、この映画を鑑賞されませんか? そして、先にタイプ予想などされては如何でしょうか?
でも、原作は傑作でしたのでお奨めです。近く、続きにトライします…。
かねてから観たいと思っていた映画です。2007年のポーランド映画で、監督はアンジェイ・ワイダ。登場する女性たちの表情がとても美しく、気高いという印象です。
公式ページ→http://katyn-movie.com/pc/story/
あらすじ 1939年、ポーランドはドイツ軍とソ連軍に侵攻され、すべてのポーランド軍将校はソ連の捕虜となった。アンジェイ大尉(アルトゥール・ジミエウスキー)は、彼の行方を探していた妻アンナ(マヤ・オスタシャースカ)と娘の目前で、東部へ連行されていく…、
この監督の映画は「灰とダイアモンド」「地下水道」の2本を見ています。「灰と~」は、30歳くらいの時に観ていますが強烈で忘れられない映画です。かつてはお薦めしたい映画のNO1でした。
今回、この映画を観て、監督は戦争犯罪をあれからもずっと追及し続けていたのだと知りました。監督はポーランド人で、彼の父親もこの事件の被害者のひとりだったようです。そして、監督自身も対独レジスタンス運動に参加しています。
ポーランドは1939年9月1日にドイツ、9月17日にソ連に侵攻された。ソ連の捕虜となった約1万5000人のポーランド将校が行方不明になったのは、それから間もなくのことだった。行方の分からなくなったポーランド将校たちがカティンの森で遺体で見つかったのは1943年のこと……。ウィキペティアより転載
なんと一ヶ月内に、西からはドイツ軍、東からはソ連軍がこの国に押し寄せていたのです。陸地続きの国で他国の軍隊が侵入してくる…、それがいかほど恐ろしいものなのか島国に住む私たちには想像できにくいもの。
なお、約2ヵ月前の4月10日に、ポーランドのカチンスキ大統領夫妻と政府高官を乗せた航空機がロシア西部に墜落して、96人全員が死亡という事故がありました。
それは、「カティンの森事件」の追悼式典に向かう途中に起きたものです。しかも、カティンの現場近くに墜落したという…。ちょっと怖いお話しですね。
しかも、この話には続きがあります。大統領たちの国葬をする日は、アイスランドの火山の噴火で、葬儀に参列できなかった首脳たちがたくさんいたみたいです。
火山噴火で飛行機が飛べないなどということは、生まれて初めて聞いたもので、めったにあることではありませんからね。ちなみに、アンジェイ・ワイダのエニアタイプは2w1と判定しています。
童話のなかに迷い込んだような映画です。でも、人が死んで死後の世界へと旅立つまでの1週間のお話ですから、メルヘンチック(和製外語)とは言えません。是枝裕和さんの監督と脚本です。
前作の「誰も知らない」を観た時の衝撃がまだ残っていて、この映画も期待していましたが、期待外れではなかったのでご紹介したいと思います。
公式ホームページhttp://www.kore-eda.com/w-life/
…冬、古びた洋館で死者たちは「一番大切な思い出を選ぶ」ことを求められます。その思い出をスタッフ達たちが聞き取り、映画となって再現されます。死者が、その思い出が頭の中に鮮明に蘇った瞬間に成仏できるというストーリーです。
是枝監督は次のように話しています
。「思い出を語るシーンには、台詞を語る役者、実体験を話す役者、実体験を話す一般の人へのインタビューが入り混じっています。一般の人が語る実話にも、本人の演出や脚色、思い違いがまぎれ込んでいます。そういった記憶の虚と実の間で揺れ動く人の感情を、ドキュメンタリーとして撮りたいと思いました」
(ちなみに、製作スタッフが、老人ホームや公園や大学のキャンパスなどを訪れ、「ひとつだけ思い出を選ぶとしたら…?」というインタビューを行い、500の思い出を集めたようです。その中から選ばれた10人が、本人(死者役)として映画に登場し、実際の思い出を語っています)
つまり、映画の中で映画作りをしています。お手のもんですね。さらに、映画作りのために多くの人から思い出を尋ねて、映画の中で映画作りするために他人の思い出探しに参加しているスタッフ…。うん?
人は一人で生きているのではない、と教えられる映画はよくありますが、この映画は、死後の世界に旅立つときも他の人たちと共同作業している、と言っているような感じです。まあ、死ぬ時も人の手を煩わせるしかないのですが…。
えっ? いえいえ、けっして怖い映画ではありません。毎日を大切に生きねばなあと、しみじみと素直にそう思えるのではないかと思います。
あっ、そうそう原ひさ子さんと由利徹さんが出演されていました。
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