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昨年、岩手と福島の被災地に出かけてから、それまで関心を持っていなかった東北への興味が強くなり、東北に関する本をあれこれ読み漁っています。
とくに面白かったのは、『宮本常一とあるいた昭和の日本・14東北①』と、『同15東北②』(農山漁村文化協会刊行)です。
民俗学者である宮本常一さん自身の文章もありますが、昭和40~60年頃(1960~1980)の写真も収録されていて、郷愁を感じさせます。
また、ある地元の人からの聞いたことを書きまとめたものが特に印象に残りました。津波に出遭った体験談もあり、この部分をちょっと転載させてもらいました(青字の部分)。
①の中に収録されているもの
「ノーンノーンという不気味な音を海のほうに聞いたかと思うと、津浪が押し寄せてきた。明治29年(1896年)の三陸津浪は夕食時のことで、死者21953人、流失戸数6049戸。
昭和8年(1933年)3月3日の地震と津浪は、午前2時13分。この時も、ノーンノーンという津浪の押し寄せる音を聞いた者が多かった」
宮本さんは「津浪」と書いていますが、津波に「音」があるのか!?と思うのですが、昨年3月の報道に、それらしいものは見つかっていません。何故なんでしょうね。
違いがあるとしたら、昨年の津波は午後3時の昼間(地震発生14時46分18秒)に起きました。他の二つは、夕刻と真夜中です。
周囲の物音があまりない時間だったためか、あるいはその頃は経済活動が小さく静かな環境だったために聞こえたのでしょうか?
なお、明治頃の地方にある村落であれば、早くも夕方は就寝時間です。寝静まっていたから津波の音か聞こえたのかもしれません。
それにしても、津波の音が、ノーンノーンとあるところが意外という感じですが、よりいっそうの不気味さを感じさせますね。
②の中に収録されているものは、岩手県田野畑村の島越という部落に住む地元の女性(明治41年生まれ・1908年)の津波体験が載っています。
「昭和8年の津波の時は幾つだったか…。子どもが二人おりやした。大きな地震の後で、みな起きて寝ないでいやしたら、明け方の3時頃になって、じいさまが“津波だ!”って言うんで、素足で逃げやした。
今より戸数は多うござしたよ。けれども、この部落には死者はありませんでした。私の家もきれいに何にもなく流れさやしたけんど、岩泉辺りの親類たちが自分の山から木を切ってきて、3月3日の津波で流されてから6月10日には、新しい家さ入れるように建ててくれやした。
八寸角の栗の大黒柱が2階まで通って、松と杉と栗。他の材は一つも使ってないこの家は、どの大工さんに見せても、どっこも曲がったとこない。解すことはない、と言いまんもんで、建て替えず、もう53年になりやした。そうでごわす。舟も全部津波で流されやした。舟も全部作り直してもらって、世間の皆さまに恵んでもらってここまできたと思っておりやす」
ちなみに、明治29年の三陸地震は6月15日午後7時32分のこと。津波は、観測史上最高の海抜38.2m。巨大津波です。
津波の第一波は地震発生から約30分後の午後8時7分と記録されている。マグニチュード8.2~8.5と記録されており津波被害は甚大。
昭和8年の三陸地震は、3月3日の午前2時30分。津波は、海抜28.7mを記録しており、第一波は約30分後に到達したと考えられているようです。気象庁の推定によるとマグニチュード8.1です。
さて、現在のような仮設住宅ではなく、53年経ってもビクともしない堂々とした立派な家が建てられていたとは…。予想だにしないことでした。しかも、3か月も経たないうちに、しかも、立木を切り落とすところから始めていたのですから…。
ところで、岩手に行ったおりに泊まった民宿は、「曲屋」という東北の伝統的建築でしたが、「地震の時は、屋根が波打っていた」と、その家の主から聞いています。
屋根が波のようにうねっているのに、なんと、壁に「筋かい」は無いという。百三十年も持ちこたえています。東北に居た間は、ほぼ毎日のように地震がありよく揺れましたが、伝統建築の耐震性は素晴らしいものがあると、感じ入りました。
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