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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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東京電力福島第一原子力発電所事故当時、中央制御室(中央操作室=ちゅうそう)で事故­対応にあたっていた元運転員(オペレーター)が事故当時の状況を語った。運転員として­は初の証言となる。

今回インタビューに応えたのは、事故当時、福島第一原発発電所2号機の運転員だった井­戸川隆太さん27歳。

井戸川さんは双葉町出身で、中学卒業後に東京電力が運営する東電­学園(東京)に入学。

電気に関する専門知識を学び、18歳で地元・福島第一原子力発電­所に配属された。

以降、原子炉を運転する現場で下積みを重ね、25歳のときに運転員試­験に合格。2号機の運転員(オペレーター)を担ってきた。

 
2011
311日は非番だったが、地震発生後すぐに、自宅から発電所に急行。

津波­が押し寄せていたため、しばらく重要免震棟で待機していたが、午後5時すぎに2号機の­中央制御室に向かう。

中央制御室は電気もなく真っ暗で、冷却のための注水ができないま­ま、室内の線量は徐々に高くなっていったという。

中央制御室は1号機と2号機の間にあり、同じ場所を共有している。

11日の夜中にかけ­て、1号機側の線量が高くなってきたため、1号機の運転員らも2号機側に避難しながら­、パラメーターを確認する時だけ、一瞬、1号機側に移動するという状況だった。

井戸川­さんは、11日の段階で、メルトダウンしているだろうと考えていたという。

井戸川さんは内部被ばく量を過少に評価されたと告発する。

20114月に内部被ばく­量を計測したにも関わらず、個人の公式記録に残すデータは、すでにヨウ素被曝の影響が­なくなっていた7月のデータが採用されたという。

東京電力が認めた井戸川さんの被曝線­量は85ミリシーベルトだ。

井戸川さんは20121月に東京電力を退社した。会社の上層部の考え方についていけ­なかったためだという。

政府による事故収束宣言が直接の引き金となった。

1号機爆発、­重要免震棟への退避、そして、東京電力を辞める決断をするまで、その一部始終を語った­


 

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