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先週、読了したものは、『雑兵物語、おあむ物語、おきく物語』(岩波文庫)という、江戸期の武人の間で珍重された書物です。そして、今週になって読んだものは、『夢酔独言』という勝海舟の父親で、勝小吉という人物が、天保14年(1843年)の頃に書いたものです。どちらも驚くようなエピソードが満載で、ぜひ紹介したいと取り上げました。
「雑兵物語」のなかに、「京の人のものいひ今のごとくにはあらず、今の人いふところは、多く尾張の国の方言よれるなり。これは信長、秀吉の二代うちつづきて、天下の事なり給いしによれるなり。又、近きほどは三河国の方言の移り来たれるなりと、云ひしとのたまひしなり」
名古屋弁は、あまり品のない方言と知られているのですが、上町(うわまち)言葉と下町(したまち)言葉という違いがあります。下町言葉はちょっと品がなく、今の名古屋市長が使っているような言葉です。上町言葉は、京ことばに近いのではないでしょうか。
「おあむ物語」は、80歳くらいの尼が子どもにせがまれて語ったものらしく、若かりし頃の関ヶ原の戦いで奉公していた石田三光の大垣城内での出来事です。娘たちはみなみな天守閣に居て、武将たちが打ち取った敵の首を集めて、娘たちが札を付けたというもので、「首もこはいものではあらない。その首どもの血くさきなかに寝たことでおじやった」 人の死をたくさん見ていたためなのか、首を怖がらず、その血生臭いなかで寝たというのです。
さらに、「衣類もなく、おれが十三の時、手作りのはなそめの帷子(かたびら・衣服)一つあるよりほかなかりし。その一つの帷子を十七の歳まで来るによりて、すねがでて難儀にあった。せめてすねの隠れるほどの帷子ひとつほしやとおもふた」
百姓ではなく、城に奉公するような娘なのに、衣服は一張羅のようです。たぶん麻衣だと思うのですが、17歳の娘が膝から踝(くるぶし)辺りしかない衣類を着ていたのですから、下々の者がどういう有様だったのか推して知るべしです。
「おきく物語」は、秀吉の側室である淀殿(茶々)に仕えた女性が20歳の頃、大阪城落城で本丸から逃げる様子をつぶさに語っています。麻衣を三枚も着てうまく逃げ出せたみたいです。どちらも読みにくいのですが、全く読めないものでもなく、普通の人たちのものの考え方や暮らしぶりが分かります。
『夢酔独言』は、このような人間が、実際、存在したのか? と思うくらい破天荒なことばかり。その頃から200年も経ないのに、まるで同じ人間とは思えないくらいに、違いを感じます。
坂口安吾が、勝海舟の伝記を読んで書いたものの一部を以下に転載させてもらいました。
「海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で貫いた御家人くずれの武芸者であった。老年に及んで自分の一生を振り返り、あんまりくだらない生涯だから、子々孫々のいましめのために、自叙伝を書く気になって漢字も知らないのに学びつつ書いたもの。この自叙伝の行間に、不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった」
そして、「夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ」と評している。これを読んだあなたも、読みたくなったのではないでしょうか。近頃、おもろい本を見つけ出す能力が高まってきたような気がします。
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