[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
さて、まずは山本博文・著『徳川幕府の礎を築いた夫婦、お江と秀忠』小郷』(幻冬舎新書)に載っているものです。
秀忠12歳の頃に、豊臣秀吉に招かれて、正月7日に聚楽第に迎え入れられたが、秀吉の妻である北政所が秀忠の頭に櫛を入れ整えた。着物や袴も秀吉が用意して着せた。「大納言(家康)はよい子を持たれているな。歳の割にはおとなしくて、さぞお気に入りの子であろう…以下略」
(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき」
現代語ならば、「秀忠は幼い頃から争い事を好まず、謙虚に生き、仁徳があり、思慮深く、父君の命令に従い逆らうことはなかった」
これらの元記事は『徳川実紀』にあるものですが、おとなしい気質と見てよいかもしれません。次は、『名将言行録』に載っているものです。
「13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入して大騒ぎになったが、秀忠は騒がず落ち着いた様子で講義を受けつづけていた」
以下は、ウィキペディアにも載っていますが、上記とよく似たエピソードです。冷静で思慮深いところがありそうです。
能を鑑賞している時に、地震が起きたが、冷静に素早く指示を行い、混乱と被害を最少限に抑えた。
『徳川実紀』には、家康はある時、側近の本田正信を召し、「秀忠はあまり律義すぎる。人は律義のみではならぬものだ」と言ったとあります。
事実、律義すぎるとしたら、タイプ1とタイプ4から探すところです。2w1で1のウイングが重い人の可能性もあります。ここでは載せていませんが、その他からも律義なところはあったみたいです。そして、妻である正室に頭が上がらなかったと言われています。
秀忠22歳頃、ある女性との間に男子(長丸)が産まれますが、それは城外でのことで、しかも2歳で亡くなっています。記録には「家女」とあるだけで身分が低かったようです。同じ時期に、正室との間に女子(勝姫)が産まれていますから、正室に気を使っていたと考えられるところです。
32歳の時、城女中との間にも男子が産まれましたが、やはり城外に追いやり、しばらくして養子に出したみたいです。男子は、のちに名君と呼ばれるようになる保科正之です。このように、秀忠が側室を持つことは無かったので、恐妻家だと見られることもあるとか。
また、正室お江(おごう)は、長男の秀忠でなく、次男の忠長を偏愛して、一時は跡取りになるのではという観測があり、それは秀忠がお江に引きずられていたからと、史料が伝えているようです。
となれば、妻はたぶん攻撃タイプ(825)と考えられ、夫である秀忠は攻撃タイプ以外ではないかと予想されます。そして、これまで見たところでは、秀忠は「おとなしくて従順だが、律義で、思慮深くて冷静」という気質になるような…。はたして何タイプが該当するのでしょうか。あなたの予想は? (続く)
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |