[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
天武天皇のエニアタイプは、タイプ8と判定できたものと考えていますが、実は、その母上である皇極(=斉明天皇、二度も即位して名も二つ)も、タイプ8ではないかと予想しています。親子なのですから、タイプ8という気質を継承したものと考えられます。
仮に、タイプ8だとしたら、奈良時代以前の古代史として学んだことの中で、事実では無くなるところが出てくるかもしれません。ゆえに、この女帝のエニアタイプをさきに絞る必要があります。
まずはウィキペディアにある記事(青字)を取り上げて、エニアタイプを絞ろうと思います。略歴的なものを転載しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
?年 高向王(用明天皇の孫)と結婚。漢皇子を産む(大海人皇子だという説あり
?年 ?歳 舒明天皇(じょめい)の妃となる?
626年33歳 中大兄皇子(=天智天皇)を産む 舒明天皇の第2皇子
?年 ?歳 大海人皇子(=天武天皇)を産む
?年 ?歳 間人皇女を産む 後に叔父にあたる孝徳天皇の皇后に
630年3月、37歳で舒明天皇の皇后になる
641年11月、48歳 舒明天皇が崩御する。
642年1月、49歳 皇極天皇として即位
642年9月49歳、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。宮室を造ることを命
643年1月、小懇田宮に遷幸(新しい都へ天皇が移ること)
643年5月、50歳 更に飛鳥板蓋宮に遷幸
645年7月52歳 息子の中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討つ(乙巳の変)翌日、皇極天皇は弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲る
653年 60歳 孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。
654年10月 孝徳天皇 崩御
655年1月62歳、飛鳥板蓋宮で再び皇位に就く(史上初の重祚)斉明天皇となる
656年 香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。吉野宮を作る。多武峰に両槻宮を作る。
658年65歳、朝鮮半島の諸国と使者を交換。唐にも使者を遣わす。北方の蝦夷に対し三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送り、蝦夷地を平定。
660年12月67歳、百済を助けるため出兵を命じ、軍器の準備のため難波宮へ行幸。
661年1月 百済を助けるために西に向かう。5月筑紫(福岡県)の朝倉橘広庭宮に遷幸。 7月朝倉宮で崩御。68歳
まず、皇極天皇に即位してから土木事業をよく起こしています。しかも、規模が大きいのが特徴的で、十万人余の人を動員したらしく、人々から批判されたくらいです。このような大規模な土木工事をした女帝が実在したとしたら、タイプ8かタイプ2くらいしか考えられません。
とくにタイプ8が最も可能性が高いと言えます。なぜなら、タイプ8は世の非難に強く、誰よりも強くなり勝ちたいという気質です。一方、タイプ2は、善い人に思われたいのですから、非難に弱いと考えられます。詳しくは以下のサイトをお読みください。
★タイプ8とタイプ2にある「ネバ人間」
http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/active/page15/15-1~/15-6.htm
★斉明天皇(3)「狂心」と非難された無謀な運河開削
http://www.sankei.com/west/news/140408/wst1404080005-n1.html
次に、この女帝は、戦争を厭わないだけでなく、好戦的な気質だと考えられます。他国と使者を交換するだけでなく、蝦夷を制すように命じたり、他国を助けるため出兵を命じます。なんと67歳の頃のことです。さしずめ現代ならば90歳くらいの高齢者です。そんな年寄りが奈良から福岡へと行くのか……、新幹線があればすぐに着くのだが…、
指令だけ出しておけばいい身の上で高齢なのに、直接戦地に向かおうとしています。かなりエネルギッシュな女帝と言えます。たとえば、源頼朝は地位が安定してからは、鎌倉から臣下たちに命令しているだけで、戦地に行っていません。まだ若く、男なのに武士なのに…。頼朝はタイプ7ではないかと予想しているのですが…。
ゆえに、斉明天皇がが控えめでおとなしい女性だとは到底思えません。タイプ8かタイプ2から探すところです。が、高齢になっても好戦的だとしたら、権力指向があり政治に強い関心を持つタイプ8の可能性が高いと考えられます。以下は、斉明天皇の政治力が少しわかるサイトです。
★斉明天皇(4) 蝦夷同行の遣唐使に託した国家戦略
http://www.sankei.com/west/news/140506/wst1405060037-n1.html
★斉明天皇の遠征
http://history.kaisetsuvoice.com/SaimeiEnsei.html
なお、女帝の年齢は『日本書紀』に載っているものですが、どうも納得できません。当時は十代で初婚となるのではと。30代に3人の子を産むだろうかと…。10~15歳くらい年齢が違うような…?? 『日本書紀』の記事は調べれば調べるほど、不可解で怪しいっていうのが通説なのだそうですが…。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |