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宝姫王は594年に誕生です。推古天皇が39歳で即位(593年)して、74歳で亡くなられた(628年)ことを身近に見ていたはずです。権力志向の強い気質ですから、推古天皇のことは、憧れというよりは目標になる人物だったと考えられます。
宝姫王は、皇族とはいっても身分的にはかなりの下位ですから、皇后にはなれても、推古天皇のような女帝になれる可能性は低いのですが、たぶん、「絶対になるぞ!」と機会を探していたと考えられます。十代の頃から周囲から婚姻をすべきだと迫られても、その気になれず拒否していました。(と、思う)
推古天皇が50歳の時に宝姫王は10歳で、40歳の年の差があります。彼女が20歳になっても推古は60歳でピンピンしています。25歳になっても、この女帝は65歳で病気一つしません。女帝に嫁ぐことはできないのですから…早く亡くなってほしい。そして、男の天皇が即位しないかと待ち受けていた…。(絶対! そうだと思う)
三十代に近づきそうなのにチャンスが来ないので、あきらめて、とうとうある男に嫁ぎます。また、イケメンだったので受け入れたのではないかと。なぜなら、かなりの美形好みがタイプ8の特長としてあります。私の知っている社長はタイプ8w7で、きれいかどうかをよく口にしており、そうでない女性には化粧しろ、きれいな服を着ろとよく指示していました。ちなみに、タイプ7は指示などしないが、美形好みはクッキリ見えます。
宝姫王の相手は、日本書紀では、高向王(用明天皇の孫)とあり、同じ皇族のようですから身分的には釣り合っています。夫との間に嫡男(漢皇子)を得たのは28歳くらいなのではと想像しております。なぜならば、漢皇子が、大海人皇子(天武天皇)だという説があり、その説に従ってストーリーを組んでいるからです。
ところで、宝姫王が息子を産んだばかりの622年頃は、推古天皇(33代)は68歳と高齢でしたが、後継者を決めていません。天皇になれる候補者は田村皇子と山背大兄王という二人が有力だったみたいです。ですから、宝姫王はどちらが天皇になれるのか探ったのではないかと思われます。
どちらも天皇の孫で血統的にはよく似ています。田村皇子は、当時、権勢をふるった蘇我氏の血が入っていません。山背大兄王は聖徳太子の息子で、母親は蘇我馬子の娘であり、蘇我入鹿とは従兄弟です。この頃は蘇我氏の勢力は絶大で、やりたい放題だったようです。(以下、ウッキペディアから転載)
崇峻天皇(32代)は、当時、大臣だった蘇我馬子によって推薦されて即位したが、政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになっていた。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった崇峻天皇は、猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集。それを知った馬子は東漢駒に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
天皇も暗殺されている。この時代は動乱期でもあり、権力闘争が続いて大変に生臭い風が吹き荒れていたと言えます。従って、次の天皇は蘇我氏の血が流れていない皇族(かつ年齢的にも若くない者)にしなければ、不満を抑えられない、というような話題を、宝姫王は人々や蘇我の親族からも聞いたかもしれません。
となれば、次の天皇は田村皇子(舒明)になる可能性があると予測したのではないかと。さらに、蘇我氏のやり口や力を知っていたはずで、当時の蘇我氏党首、蘇我蝦夷(馬子の息子)に近づいて、田村皇子の妃に推挙してもらったと考えられるのです。
宝姫王は、蘇我氏の血を少し持っているだけなので、世間からはさほど非難されにくく、蘇我氏にとってもそれほど悪い相手ではなく、また、女性なので難なく思い通りにできると思ったのかもしれません。(そこが蘇我氏の破滅の始まり)
また、男盛りの蘇我入鹿(蝦夷の息子)にも近寄って、お互いに協力関係になりましょう、と甘い言葉で囁いたのです。(と、考えたほうがタイプ゚8の女性らしいやり口です)
宝姫王が夫を捨てて(事実はわかりませんが、たぶん捨てたと思う)、田村皇子と再婚したのは、およそ622~625年頃で、第二皇子である中大兄皇子(天智天皇)が626年産まれているところから換算できるところです。その後に、娘(間人皇女、後に弟の孝徳天皇の皇后になる)を産み、ついに630年3月、37歳で舒明天皇の皇后になりました。
(なお、宝姫王の息子である大海人皇子は、娘(間人…)の後に産まれたことになっていますが、異例なことで誕生日も死亡日も不明で、謎多し)
なお、田村皇子には、8歳以上も年上の妃(皇子が天皇になれば妃と呼ぶ)がいて、しかも身分が高すぎます。敏達天皇の娘で、かつ推古天皇の娘です。この人がいては、宝姫王は皇后にはなれません。初婚でもなく、子も生んでいて、しかも身分も低いのですからね。
しかし、この妃は、田村皇子が舒明天皇として即位する前に亡くなったので、妃ではあっても皇后になっていないと推測されています。が、死因はどうなんでしょうか。病死ではなく、他殺だったってことは?
さらに、田村皇子には「夫人」といって、「妃」よりも身分が低い位の蘇我馬子の娘が居ます。第一皇子の古人大兄皇子を産んでいます。この夫人は、後から妃となったきつい女・宝姫王に対して、どれほどの警戒心を抱いたのかと思うのです。自分の息子は邪魔もので、いつ殺されるかもしれないと思ったのに違いありません。(たぶん、そうです…)
なにしろ、我が家でエニサロを開いた折、タイプ8の女性をゲストとして招いてお話ししてもらったことがあります。日ごろはベチャクチャと勝手におしゃべりに興じて、ゲストの話など聞かないことがよくありましたが、この女性の時は、みな背筋ビシッです。おしゃべり無しで、緊張して真剣な顔立ちになったほどです。銃刀など持ってないのにです。
さて、次は舒明天皇と宝姫王は一歳違いです。女帝になることが生涯の目標ならば、舒明天皇に先に死んでくれなくてはなりません。でも、運がまわってきたようで、641年11月に舒明天皇が崩御しました。
妻になってから10年以上も我慢したのかどうかわかりませんが、当時のことですから、暗殺や毒殺など度々あったことを思えば、その可能性が無きにしもあらずです。とにかく、自身も中年が過ぎようとする年代(48歳)ですからね。尤も、天皇を補佐する頼りになる心強い皇后でいたのかもしれませんが。
以上は、『日本書紀』やウィキベディアに載っている内容から、勝手に想像しながら作ったストーリーです。つづく。
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