そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰?
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よくよく調べてみたら、宝姫王(皇極・斉明)の祖父である桜井皇子は、欽明天皇の息子で、かつ推古天皇とは母親が同じですから、姉弟という関係です。母が同じということは、母系社会で妻問婚でしたから、推古天皇と同じ屋敷に住んだり、互いによく行き来するような血縁関係です。
推古天皇は才色兼備だったようで、亡くなったのは74歳で、当時ならかなりの長寿です。宝姫王より40歳年上です。たぶん、宝姫王は幼い頃から推古天皇から声をかけられたり可愛がられた可能性があります。
さて、田村皇子が次期天皇になりそうだと踏んだ宝姫王は、推古天皇を訪ねて、田村皇子(舒明天皇)の妃になりたいと、自分のほうからに売り込んだに違いない、と私は想像します。ですが、田村皇子のほうが彼女に近づいたなどと書かれていた本もあります。武光誠・著の『女帝の国、日本』にあります。
「田村皇子は、王族のなかで宝姫王が有力だとする評判が高まっていたために、彼女に接近したのではあるまいか」とありますが、著者の想像なのか? どこかに書かれていたものか、それもわかりません。私が読み漁ったところではそれらしきものは見つかっていません。
ご存知のように、この時代、天皇は国民の象徴ではありません。戦乱の世であり骨肉争う時代でもあり、天皇の年齢が若くなく、人生経験豊富な世代であることが求められる時代です。
また、皇后もお飾りではなく、天皇の補佐役として賢くしっかりした女性が求められました。そんなわけで、たぶん、宝姫王は、他に皇后になれる女がいたとしても、「私ほどの適任者はいない」と、周囲に漏らしただろうと。
さらに、前回(その1)書いているように蘇我蝦夷に近づいて、互いに協力しあう誓約を結びます。そして、蘇我の時代と言われていた蘇我宗家の推挙で、皇后になることができたと考えられます。
ところで、舒明天皇の時代は比較的平穏だったみたいで、天皇は皇后を伴って温泉旅行を楽しんでいたみたいです。有馬温泉や道後温泉など、3、4ケ月も都を留守にしていたのですから…。
先のところで取り上げた武光誠さんはこう言っています。「欽明が控え目な性格であったことから、新しいもの好きで意思の強い宝姫王の意見がより強く政策に反映されることになったとみられる」
この古代史研究者はよい所に目をつけています。他の研究者などは、「女帝に限らず古代の女性は男に従うだけで自分の意思がない」とか、「個性ある一人の人間として見る」という傾向が無いかに見えます。
なお、タイプ8は新しいもの好きで、意思の強さは他を圧倒します。また、ボス型タイプのおやじ気質ですから、政治への関心は最も高い傾向があります。しかも、それは生まれついての気質です。従って、宝姫王がタイプ8であれば、女性というより、男勝りの勝気な気質です。
ゆえに、「疲れをとりたいので有馬温泉に行こうと思うけど、あなたも付いてくる?」と、なったのではと思うのです。婚姻する前は控えめで従順な女を演じていても、正式に婚姻したら本性がすぐに出ます。尤も、古代だけでなく現代でも、強い女を妻として求める夫は存在します。そのほうが頼りになるからです。
夫をうまく操縦して10年余(630年)のこと、宝姫王はようやく皇后に即位できました。37歳の時です。この年、第一回の遣唐使が派遣されました。「唐との関係は大切だ、早く派遣すべきだ」と、曖昧さやグダグダなどの無い明確なきつい指示を出していたことでしょう。
天災などはありましたが大事件も起きなくて、社会的には穏やかな日々が過ぎて行きました。ですが、天皇は10余年も皇后に振り回された結果として、頼りがいはあっても、そのストレスから重い病にかかりました。
「田村皇子は、王族のなかで宝姫王が有力だとする評判が高まっていたために、彼女に接近したのではあるまいか」とありますが、著者の想像なのか? どこかに書かれていたものか、それもわかりません。私が読み漁ったところではそれらしきものは見つかっていません。
ご存知のように、この時代、天皇は国民の象徴ではありません。戦乱の世であり骨肉争う時代でもあり、天皇の年齢が若くなく、人生経験豊富な世代であることが求められる時代です。
また、皇后もお飾りではなく、天皇の補佐役として賢くしっかりした女性が求められました。そんなわけで、たぶん、宝姫王は、他に皇后になれる女がいたとしても、「私ほどの適任者はいない」と、周囲に漏らしただろうと。
さらに、前回(その1)書いているように蘇我蝦夷に近づいて、互いに協力しあう誓約を結びます。そして、蘇我の時代と言われていた蘇我宗家の推挙で、皇后になることができたと考えられます。
ところで、舒明天皇の時代は比較的平穏だったみたいで、天皇は皇后を伴って温泉旅行を楽しんでいたみたいです。有馬温泉や道後温泉など、3、4ケ月も都を留守にしていたのですから…。
先のところで取り上げた武光誠さんはこう言っています。「欽明が控え目な性格であったことから、新しいもの好きで意思の強い宝姫王の意見がより強く政策に反映されることになったとみられる」
この古代史研究者はよい所に目をつけています。他の研究者などは、「女帝に限らず古代の女性は男に従うだけで自分の意思がない」とか、「個性ある一人の人間として見る」という傾向が無いかに見えます。
なお、タイプ8は新しいもの好きで、意思の強さは他を圧倒します。また、ボス型タイプのおやじ気質ですから、政治への関心は最も高い傾向があります。しかも、それは生まれついての気質です。従って、宝姫王がタイプ8であれば、女性というより、男勝りの勝気な気質です。
ゆえに、「疲れをとりたいので有馬温泉に行こうと思うけど、あなたも付いてくる?」と、なったのではと思うのです。婚姻する前は控えめで従順な女を演じていても、正式に婚姻したら本性がすぐに出ます。尤も、古代だけでなく現代でも、強い女を妻として求める夫は存在します。そのほうが頼りになるからです。
夫をうまく操縦して10年余(630年)のこと、宝姫王はようやく皇后に即位できました。37歳の時です。この年、第一回の遣唐使が派遣されました。「唐との関係は大切だ、早く派遣すべきだ」と、曖昧さやグダグダなどの無い明確なきつい指示を出していたことでしょう。
天災などはありましたが大事件も起きなくて、社会的には穏やかな日々が過ぎて行きました。ですが、天皇は10余年も皇后に振り回された結果として、頼りがいはあっても、そのストレスから重い病にかかりました。
舒明は641年11月、48歳で崩御しました。翌年642年1月。宝姫王は「皇極天皇」と成り、子どもの頃からの目標に無事到達しました。つづく
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