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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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私が驚いたのは、宝姫王(皇極・斉明)をタイプ8だとしてみたら、不可解なことや謎だと思われていたことが、どうやらスラスラと解明できると気づいた時です。当時の舞台と出来事などを調べて、人間関係や年齢なども把握していくと、宝姫王の行動の仕方が難なく書きまとめられるのです。うまく説明できるのですから、タイプ8と判定したことで間違いではなかった、と、思うのです。


さらに知ったこととして、宝姫王は、自分の母親が病に臥して亡くなりますが、母親の床から長く離れることなく、懸命に看病していたようです。誰にとっても母親は大切な存在なのでしょうが、「母親を強く意識するタイプ(8374)」にまさることはないと考えられます。ただし、これだけではタイプ8とは絞れないのは当然のことです。

さて、宝姫王は、かねてから蘇我蝦夷や入鹿とは表面上は丁寧に、かつ、従順そうな振る舞いをしていたかもしれませんが、友好的な関係を保持しようと努めていたはずです。しかし、一方で、いつどのように倒すべきかを思案していたと考えられます。

タイプ8は、他人をめったに信用することはなく、危機意識も高い気質です。なぜなら、「自分と世界は否定的に結びついているタイプ(837)」の共通項でもあります。以下に掲載しています。
http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/eneagram/static/theory1.htm

宝姫王の息子(中大兄皇子
)は19歳になったばかりですが、たぶん、剣さばきに秀でています。また、息子の家臣となったばかりの中臣鎌足(後に藤原鎌足)31歳です。慎重で周到、かつ賢い男です。この二人に忠誠を誓わせて後、秘かに練っていた暗殺計画を打ち明けました。

また、宝姫王は、蘇我一族を分断するために、一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂 (入鹿の従兄弟)を同志に引き入れて、その娘
(遠智娘おちのいらつめ)を中大兄皇子の妃として迎えることに成功しました。644年頃のことです。

なお、前回(その3)で取り上げた山背大兄皇子の討伐は、643年の12月のことですが、その一年前に高句麗(こうくり、現在の中国満州と北朝鮮辺りで建国した)ではクーデターが起きています。倭国にそのクーデターの知らせが入ったのは645年頃だと言われています。

高句麗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
(
高句麗の
宰相で将軍だった淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が、王や貴族らを殺害して代わりの王を擁立して政権を掌握した。 淵蓋蘇文 』(ヨン・ゲソムン)というタイトルで韓国TVドラマになっています)

この知らせで、宝姫王の危機感は頂点に達します。蘇我入鹿はまさに皇極政権の宰相のような立場にいますから、この知らせが入鹿に伝わらないよう使者に厳しく口止めをします。一刻も早く暗殺する必要があり、入鹿をおびき寄せるための方法を必死に探しました。

そんな折に、三国(新羅、百済、高句麗)の使者が
来日する日は、二日後だという知らせを受けました。そこで、三国の調の儀式を執り行うということで入鹿を呼びつければ、事はうまく行くと見て皇子に細かく指示しました。他の者たちにも周到に用意させるよう命じました。

タイプ8は、「勝たねばならない」というネバ人間です。このような非常時であればハイテンションになりつつも冷静で落ち着きもあり、さらに頭は冴えて来るという気質です。手抜かりなく、確実に入鹿たちを追い詰めると考えられます。

なお、
儀式の場である大極殿はごく一部の者しか入れません。皇極天皇、中大兄皇子古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足やその他数人で、密閉された場です。

645
612日、入鹿は宝姫王のいる前で、突如として躍り出た中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬殺されたのでした。この日は大雨が降り、大極殿の中庭は水で溢れ、入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。

翌々日にはかねてからの計画通りに入鹿の父・蝦夷を追い詰めます。蝦夷は自殺して果てます。後に、「乙
巳の変・いっしんのへん」と呼ばれたクーデターです。策謀家・宝姫王の完全勝利です。

なお、「日本書紀」などでは、中臣鎌足(後に藤原鎌足)の主導で成したものだと言われています。しかしながら、「日本書紀」の編纂をしたトップにいたのは、藤原不比等と言われています。中臣鎌足の次男で、「乙巳の変」の当時は14歳です。日本の最初の正史と言われる『日本書紀』は720年に完成しています。

さて、
宝姫王がタイプ8であれば、いつもどんな些細なことでも主導したがります。決して息子に頼るとか家臣を信じて相談するなどということはありません。彼らをアメとムチで掌握しただろうと考えられるのです。つづく…。

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