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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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前回のその4では、前王の妃である女性(皇太后)が書いたものを転載しております。彼女はドルジュ・ワンモ・ワンチュクと言います。
1931
年のことですが、第二代のワンチュク国王が暗殺した人物が、ブータンの最高権威化身高僧シャプドゥン・ジクメ・ドルジェで、いわばブータンの精神的統治者です。なんと彼女の父方の大叔父を殺したのが、結婚した相手である第4代王の祖父です。


著書には「家での法要で毎年唱えられていた父方の祖父の祈願が、“自らの子孫から国王が生まれるように”」だったと載せています。がしかし、それは「国民からの強い要請があってのこと」だったようです。「和解しなければ」という思いが強いように見えます。小国だからこそなのかもしれません。

1988年、国中で婚儀の祝いが三日間続いたようです。この第4代国王は父王が崩御したため、16歳で即位しています。でも、ちょっとわからないところがあります。ウキペディアに書かれているものです。

「名門の出身ウギェン・ドルジと、同じく名門の出であるトウジ・ザム夫人の間の6人姉妹のうち、次女から五女の4姉妹を娶り、55女をもうける」

しかしながら、第4代国王には「既に8人の子どもがいた」と、著者である皇太后が語っているからです。上記にあるウギェン・ドルジさんが先に8人産んでいたのか、それとも…?まあ、そんなことに関心はないのでどうでもいいのですが…。

ただ、皇太后(1955年生まれ)が子どもだった頃には、車、自動車道路、電気、電話、銀行、郵便、紙幣が無かったようです。となれば、婚姻やその他の伝統は守られ続いているはずです。彼女たちは政略結婚を厭うのではなく、平和な国にしたいという思いが強かったのかもしれませんね。しかしまあ、4姉妹が一人の夫と婚姻するなど、あまり例のないことです。


ちなみに明治天皇(1852年生まれ)も正室と側室がいました。子どもは15人。男子5人で女子10人です。柳原愛子という典侍(側室)が産んだ子が、大正天皇(1879年生まれ)です。ですが、大正天皇になってからは一夫一妻制になりました。

ところで、日本の皇室の衣装は、婚儀では千年前から継承されている公家の衣装で執り行っており、とりあえず伝統を守っていると言えます。ですが、西欧列強に比べて300年も遅れていると仰天したのか、西欧列強と伍していくには同じ服装にすべきとなり、1868年(明治4年)いち早く洋装を取り入れています。

ブータンのように古来からの伝統は守って欲しかったと思うのですが、公家や武士の衣装などは着用するのに時間が掛かり、窮屈で崩れやすくて、利便性があるとは思えないので、致し方なかったのでしょうね。

ちなみに、明治からの歴代天皇は和服を着ないので、疑問に思っていましたが今回調べてみて驚きました。天皇家は公家の服装で、和服は武士の服装ゆえに、身分的に低い衣装は絶対に着用しないらしい…。

ですが、公家も貴族もなく身分制度はとうに廃止されたのですから、服装に関して、それほど頑なになる必要はないと思うのですが…。

さて、
前王の妃である女性(皇太后)が著わした『虹と雲』(平河出版社)には、親が婚姻相手を決めていたとか、出産を「穢れ」だと捉えていたことが載っています。私の年代の人達にとっては祖母や母親たちがそうでした。

その他、女人禁制の寺もあり、各地に男根も祀られているらしく、江戸末期から昭和初めまでの文化や風俗に類似しています。ブータンのこと、知れば知るほど、なんとなく懐かしいって感がします。(つづく)

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