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当時、諸大名は参勤交代があり、一年置きに江戸と国許を往きせよという規定「武家諸法度」がありました。しかし、水戸は「江戸に定府する」と定められていたので、光圀は全国の大名と知り合える機会に恵まれたと考えられます。
ゆえに、大名だけなく、旗本や奉行や代官などのクラスの人物とも知り合っています。また、よく知られている『大日本史』の編纂という大事業を始めているので、人材を集めて育成したり、得難い人材を招いて語り合うことも多かったみたいです。
さらに水戸領内の豪農や豪商との交わりもあるなど、交際範囲は相当広かったと言えます。つまり、光圀
はかなりの社交的気質と言え、人づきあいを好むタイプと考えられます。2w1と絞れるところです。
それだけではありません。2w1のなかには好奇心も強すぎるというか、趣味が多く、知りたがりで、あちこちに顔を出す人がいます。いろいろな体験をしたがり、世話役になって意見したりと、とかく口出しが多いという傾向があります。光圀もこのような人物ですから、タイプ2w1と判定できると考えられます。
ところで、これまで光圀に関する本を11冊読んでいますが、名君だと捉えている本は9冊で、残り2冊が批判的でした。その一つ、長須祥行さん著の『越訴(おつそ)…水戸藩・宝永一揆の謎』の記事が最も詳しく信頼がおける内容だと見ています。以下に、結論的なこととしてまとめられたものを、少し転載させてもらいました。(青字)
「三百年余の幕藩時代を通じて、水戸藩領の百姓は、常に窮乏生活を余儀なくされている。一言で言えば、低生産=高租率が原因とみられている。この藩には、これといった民政上の施策を見いだすことは困難であり、ようするに光圀という藩主は、自分の趣味や思想を生かした文化事業にかまけて、領民のための政治は等閑視(とうかんし=ないがしろ)したのである」
ちなみに、水戸の百姓は「六公四民」と言われた苛酷な年貢をとりたてられていました。ちなみに、全国平均は「五公五民」、幕府の天領であれば「四公六民」です。が、それ以外の税や夫役などがあり、巧妙な仕組みで搾取されており、実質的には「七公三民」以上といえます。
領民は、光圀の治世から窮乏生活を強いられており、隣の領民からは乞食のようだとも言われ、それが江戸末期にも続いていた。年貢増だけでなく、苛酷な運河開発の労役などでも苦しめられていたのですから、領民たちが圧政に耐えがたくなるのは必然的です。
光圀が亡くなった8年後に大規模な百姓一揆が勃発しました。なお、一揆ともなれば、首謀者は磔獄門ですが、水戸領では首謀者たちは行方不明。闇討ちだったと考えられます。これに関しては上記(赤色)の『越訴』に詳しく載っています。
なお、光圀という人物をこと細かく書き出し、名君かと思われる良いところも載せるべきところです。が、しかし、どうもその気になれません。尊敬できる人物であれば、もっともっとと取り上げたくなるものですが、そうではなかったので、もう勘弁してほしいって感じです。でも、いつか水戸藩に関しての番外編をまとめたいと思っています。
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