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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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前回「久野姓」を名乗っている人の住まいは、名古屋市が一番多く、2番目は東海市で、6番目に多かったのは静岡県袋井市でした。

なお、6番目の袋井市の前後(5番目と7番目)は、愛知県に住む人ばかりです。なんだか静岡の袋井市が突然に顔を出したって感じです。

前々回に、ウィキペディアに載っていたのは、「久野氏は遠江国(静岡)発祥といわれる氏族」とありました


あれば、袋井市(静岡)と加木屋に住む人たちは、何か因縁があるかもしれないと、他に情報はないかと探しました。以下です(青字)。

★久野氏+諸氏ミニ情報

http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/index.html

「このホームページは、愛知県に在住の私、大島が静岡県と愛知県の久野(くの)氏の祖先が同一であるとの仮定に基づき、久野氏のほぼ戦国時代までの足跡を網羅すべく、―略― まとめたものです。全国の久野氏のルーツが同じ可能性もありますが、一部の文献に惑わされることなく、史実にどこまで迫れるのかも念頭に置いて調査を進めています」

なお、この方と同じことを私も予想しました。よく知られているように「漢字は当て字」です。呼び方や読み方が同じであるほうが関連性が高いと考えられるからです。

久野の発祥が、静岡袋井市久能であれば、加木屋や名古屋に住む人たちは、「くのう」と呼び合っていました。私も人に名を尋ねられたら「くのうです」と返事していました。尤も、「くのさん」のほうがカッコイイのにと思っていたのですが。

さて、上記の「久野氏+諸氏ミニ情報」には、「加木屋久野家系図」なるものが紹介されています。で、この家系図にあるものを少し転載させてもらいました。

・加木屋久野家系図によれば、久野清兵衛義尭が今川範氏に仕えていたと書かれています。

・加木屋久野家系図によれば、鎌倉時代から南北朝時代にかけての頃には、牧野氏が駿河久野氏から養子(久野貞之→牧野熊蔵を名乗る)を迎えるまでの関係になった。

桶狭間の合戦では駿河久野氏が敗走して、久野貞之の時から縁のある牧野氏、この時は大高の牧野伝蔵成里(三河今橋城主牧野古白の後裔で、後に旗本)を頼って落ち延びだ。一時、牧野熊蔵を名乗り尾張国(現在の愛知県東海市加木屋町)に住みついたと言うことです。


・桶狭間の合戦に参加した人物には久野栄邑(加木屋久野家初代)がおり、栄邑は合戦前から一族の久野之永が住んでいた大高に落ち延び、その後加木屋に来住したとされています。

・加木屋久野家系図では、江戸時代の当主も代々清兵衛を名乗っていますが、一人だけ清平を名乗っている人物が見えます。

・『熊野神社しおり』に書かれています。「永禄三年五月(1560)今川の家臣であった久野清兵衛宗政が、駿州久能山を出る時阿弥陀・薬師・観音の三尊を所持していた。

が、加木屋村に足をとどめた宗政は、この観音を氏神神体として当時、宗政の家屋の戌亥に当って氏神本社があったが、この森へ移し奉り御除地に願って熊野之社宮と崇め奉る」とあり…略…加木屋二代の宗政なる人物は遠州の出身であったのは確かなようです。


・加木屋久野家系図が、平安時代に自らの家を「弓馬之家」と称している。

ここを読んで、えっ!! 平安時代?!! 鎌倉時代?!! ウソ! と思わず声を上げてしまいました。つづく

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