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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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私の旧姓「久野氏」は、「久努直の裔で、古族(物部氏族の久努国造か)の末裔」ではないかと、古代史研究者から指摘されています。

そして、谷川健一著『白鳥伝説』の中に載っている(青字)のは…

「久努氏は遠江国山名郡久努郷に起こった。久努国造は物部連の祖の伊香色雄(いかがしこお)の孫である伊播足尼(いなばのすくね)

久努国(現・静岡県磐田市・袋井市周辺)を支配した国造。

(注:国造とは、現在なら知事みたいな立場。が、軍事権、裁判権などの自治権がある)


ところで、物部氏は、鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた軍事氏族で、罪人の刑を執行する業務があったとか。また、古代最大の氏族だと言われています。

物部氏の分布地図ここ


著名な読書家である松岡正剛さんは、『物部氏の正体』(関裕二著)を読んで、「数ある古代日本の謎のなかでも、物部の謎ほど深くて怪しいものはない」と書いておられる。

でも、謎が多いほど引き付けられるものです。久努氏のことをもっと知りたくなり、ネットで「久努」と入れて検索し、以下のようなものを見つけました。

久努麻呂は、675年に天武天皇の怒りを買って、小錦下という冠位の位を奪われた。理由はわかっていない。


その後、赦されたらしく、686年9月、天武天皇の葬儀に刑官を代表して誄(しのびごと)(哀悼の意をあらわす言葉)をのべた。

その直後、686年の10月に、大津皇子が謀反の罪を問われて、死を賜ることとなった大津皇子は「悲劇の皇子」と知られています。

持統天皇が我が子である草壁皇子を天皇に即位させるために、謀反の疑いをかけられて殺されたというのが定説です。

この皇子を刑の執行場に導いたのが、久努麻呂だったようです。『日本書紀』に載っているとか。

久努麻呂は物部氏族ゆえ、刑官としての役目があり、大津皇子の最後を看取っていたと考えられます。

大津皇子と言えば、文武両道で体格も容姿も優れ、見事な漢詩を書き、謙虚で礼儀正しく、謙虚で寛大、性格もよく人々の信望を集めていたと伝えられています。

大津皇子に関してはここ


このようなことがあったと知ると、ますます古代史に惹かれてしまう。そして、久努氏が久野氏のルーツでなくとも、久努一族のことを調べるほどに親しみを感じてきます。

そういえば、図書館の古代史関係の冊子は棚一杯でかなり占めていたこと、急に気がつきました。つづく

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