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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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中村彰彦著『幕末維新改メ』を読んで知ったことは、高杉晋作が組織した「奇兵隊」の実態です。

門閥や身分にかかわらず、農民や商人でも、志願したら受け入れるという、それまでない発想の軍隊です。

そうなったのは、緊急に銃兵を集める必要に迫られていたからで、長州藩が馬関海峡(関門海峡)を封鎖。

航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。1863年5月のことです


は、到底勝てるような相手では無いとわかっていなかったのか。それとも、反乱を起こすことで倒幕を狙っていたのか。

さて、その半年後にアメリカ・フランス軍艦から報復されて、長州藩は壊滅的な打撃を受けました。で、長州藩は、大急ぎで新式の銃や弾薬やその他の武器を買い入れた。

西洋の知識や技術を導入して、軍備や軍制を近代化した。が、兵士は集められず、「部落民登用令」を出して隊士を集めた。

当初、彼らは「屠勇隊」と名付けられ、奇兵隊とは別に扱われていた。タク! クソクラエです。その後に正規常備軍に組み入れられて、大村益次郎の下で訓練を受けた。

なお、普通、各隊の名を「〇〇隊」とか「〇軍」という名をつけるが、彼らには「〇〇団」とか「〇組」だった。衣装も黒一色にしたり、その他かなりの差別を受けていたと考えられる。

前のところで、「官軍は腐敗していた」と書いていますが、まずは奇兵隊の幹部たちは、隊士が得るはずの手当の半分をピンハネしていたことです。

また、戦場では略奪とレイプが許されていたのだ。規律など無いに等しく、さらに惨いのは、「会津藩の死者は埋葬するな!」という命令を出していたのだ。


函館戦争が終結し奇兵隊は帰郷するが、元々の定員は1500人で、帰郷したのは4100人。

このまま常備軍として雇うことは出費が多すぎるので解雇しようとした。が、それまでの幾多の差別から不満は大きく、彼らは脱隊したり、常備軍と戦った隊士もいた。

長州藩にとって事態は深刻で、脱隊者を追討して処刑。そこから逃れた残党は、瀬戸内海の海賊と化した。

彼らは命を懸けて戦い、多くの戦友が無残な死を遂げているのを見ていた。それに対する怒りは強く、ついに無法行為を働いたのだろうと。

長州藩は、戦死者を桜山招魂場などに祀ったが、被差別部落の戦死者は祀られることがなかった。

死んでも差別を受けるのかと。後の東京招魂社は、靖国神社のルーツです。

最近の報道にありましたが、宮内庁は靖国神社の天皇陛下参拝の要請を断りました。


昭和天皇と上皇は、一度も靖国神社に参拝することはなかった。

しかし、8/15、小泉進次郎議員は、今年も靖国神社を参拝したようです。

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