そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰?
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私の父方のルーツからみると、久野氏は「武士」と「神職者」との関りがあるようなのです。
以下にある「史書などに登場する久野氏の面々」を見ると、家臣として仕えています→ここ
そして、夫の生家も神職を継承している家でした。また、私の母方の祖父は寺の住職をしていましたから、どちらにしても宗教色が濃厚です。
そんな環境なのに、なぜか私は無神論者になっていました。しかし、信仰心の篤い人のほうが、幸せかもしれないと時々思うことがあります。
以下にある「史書などに登場する久野氏の面々」を見ると、家臣として仕えています→ここ
そして、夫の生家も神職を継承している家でした。また、私の母方の祖父は寺の住職をしていましたから、どちらにしても宗教色が濃厚です。
そんな環境なのに、なぜか私は無神論者になっていました。しかし、信仰心の篤い人のほうが、幸せかもしれないと時々思うことがあります。
なお、祖父が住職をしていたのは京都府南丹市の「氷室山瑞雲寺」です→ここ
この寺で祖父が住職をしていた期間は短く、“謎の人物”だと思われていたようです。娘(私の母親)が生まれる前に若くして亡くなったみたいです。
祖父の写真は残っているので、母は父親似とわかります。この寺に一度は訪ねようと思ってはいるんですが…。なかなかその気になれません。
母方の親戚には住職となっている人が結構いますが、継いでくれる男児がいないと、寺を出ないといけないらしい。
さて、道草ばかりするので久野氏のルーツ探しが進みません。遠州の久野氏が有望だと思っていたのですが…。
父のたぶん本家である加木屋久野氏の系図に関して、駿河国の出だという情報が見つかり、さらに加木屋町にある熊野神社の由緒(青字)書きの中にもありました。
・寛永十五年(1638)社人(神職)・久野出羽守季広(社人三代目)庄屋・久野与八郎祐吉葦師熱田彦右ェ門(以下略)」
……略……
・文政三年(1820)神主・久野宮太夫(社人九代目)直寛 庄屋・久野清兵衛(外一人略)組頭・久野増右衛門(外一人略)大工平助、葦師加藤市蔵(外六人略)」
・昭和五十四年(1979)四月、宮司・伴野万米男、氏子総代・久野半三助(外八人略)施工宮義代」
以上から、久野氏は1603~1863年まで神職者を務めており、また庄屋だったこともわかります。昭和では神職から降りたみたいで、氏子総代になっています。
つまり、太田亮博士が主張している「為憲流の久野氏は駿河国安倍郡久野(久努、久能)より起るもの」
で、「遠江久野氏とは別ものとし、遠江久野氏はおそらく久努直の裔なるべしと早くに指摘しています」
古族の久努氏がルーツだといいなと思っていたのに……残念。まだまだルーツを絞れません。つづく。
この寺で祖父が住職をしていた期間は短く、“謎の人物”だと思われていたようです。娘(私の母親)が生まれる前に若くして亡くなったみたいです。
祖父の写真は残っているので、母は父親似とわかります。この寺に一度は訪ねようと思ってはいるんですが…。なかなかその気になれません。
母方の親戚には住職となっている人が結構いますが、継いでくれる男児がいないと、寺を出ないといけないらしい。
さて、道草ばかりするので久野氏のルーツ探しが進みません。遠州の久野氏が有望だと思っていたのですが…。
父のたぶん本家である加木屋久野氏の系図に関して、駿河国の出だという情報が見つかり、さらに加木屋町にある熊野神社の由緒(青字)書きの中にもありました。
→ここ
記録によれば、永禄三年(1560年)桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元の家臣であった久野清兵衛(二代目)宗政が、駿州の久能山を出てから、縁あって加木屋の住人になったのである
宗政は弟祐長を社人(神主)とし、屋敷内にあった氏神御本社を宝永年中(1705年頃)に北の杜へ移り奉り、御除地に願い熊野三社と崇め奉った。
《神社の歴史》
記録によれば、永禄三年(1560年)桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元の家臣であった久野清兵衛(二代目)宗政が、駿州の久能山を出てから、縁あって加木屋の住人になったのである
宗政は弟祐長を社人(神主)とし、屋敷内にあった氏神御本社を宝永年中(1705年頃)に北の杜へ移り奉り、御除地に願い熊野三社と崇め奉った。
《神社の歴史》
・慶長八年(1603)称宜・久能久左ェ門(社人二代目)裕成」(これが現存する最古棟札)
・寛永十五年(1638)社人(神職)・久野出羽守季広(社人三代目)庄屋・久野与八郎祐吉葦師熱田彦右ェ門(以下略)」
……略……
・文政三年(1820)神主・久野宮太夫(社人九代目)直寛 庄屋・久野清兵衛(外一人略)組頭・久野増右衛門(外一人略)大工平助、葦師加藤市蔵(外六人略)」
・昭和五十四年(1979)四月、宮司・伴野万米男、氏子総代・久野半三助(外八人略)施工宮義代」
以上から、久野氏は1603~1863年まで神職者を務めており、また庄屋だったこともわかります。昭和では神職から降りたみたいで、氏子総代になっています。
つまり、太田亮博士が主張している「為憲流の久野氏は駿河国安倍郡久野(久努、久能)より起るもの」
で、「遠江久野氏とは別ものとし、遠江久野氏はおそらく久努直の裔なるべしと早くに指摘しています」
古族の久努氏がルーツだといいなと思っていたのに……残念。まだまだルーツを絞れません。つづく。
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