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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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加木屋村は、「寛文村々の覚書」(1670年前後)では、概高は786石余で、家数107軒、人数715人」と記載されています。

この石高では豊かな村とも思えませんが、村人の負担はどれほどだったのかはわかりません。

が、妙法院(=修験者・妙玄)の祈祷によって、病気平癒や安産を願うなど、村人の多用な要望に応えていたように見えます。

雨ごいの祈祷もしていたようですが、知多半島には大きな河川が無く、1961に愛知用水ができるまで水不足の地だったことは、父親から聞いたことがあります


18世紀後半頃に、尾張国から大峯山への参詣が盛んになったみたいで、加木屋の村人も頻繁に大峯山参りに赴いていたとあります。

大峯参りに送り出す村人が、登拝者へ「わらじ銭」を渡し、登拝者の家族へは「留守見舞」を渡す。

そして、そのお返しとして登拝者が村へ帰って来た折に、 大峯山の御札と土産を受け取ったようです。

大峯山参りは、たぶん男たちだけで、女たちは家に残されたのでしょう。

それでも、「留守見舞い」とは、何という気遣いができる人たちなのでしょうか! ここもちょっと嬉しくなるお話しです。

なお、1871年(明治 4年)、明治政府は「修験道廃止令」を出したため、多くの修験者が廃業を余儀なくされたみたいです。

ところで、「村内の寺院として、宝幢山・普済寺・その末寺の如意庵の名があがる」と有り、驚きました。

普済寺(ふさいじ)は両親の墓があるところで、子どもの時から墓参りをしていた寺です。

普済寺の開基は1501年(文亀元年)で、大中一介禅師によって開創された寺だと始めて知ったところです。

普済寺が五
百年以上も前からあったとは…、私の先祖さまもこの寺で手を合わせていたのですね。

さて、日本福祉大学の調査のおかげで、加木屋の村人たちの暮らしの一端を知ることができました。


これだけでも大満足なので、このシリーズ(ルーツ探し)を終えることができます。

でも、重複した記事もあり恥ずかしいのですが、読んでくださった皆さまへお礼申し上げます。ありがとうございます。

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竜頭 万里子 (りゅうとう まりこ)
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