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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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今日で3回目ですが、初回に光圀の青年時代を取り上げていますが、再度、以下に載せました。
(光圀は)町で刀を振り回したりするなど不良な振る舞いを行っており、吉原遊郭通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている」


他の幾つかの書には、「異常な服装でのし歩き、悪所通いをするが、藩主になってからも悪友と語らって大いに遊び、人の意見を聞かない性格も一生変わらなかった」とあります。

“性格は変わる”とよく言われますが、たとえ変わったなと思われる人でも、エニアタイプを調べたら同じタイプのままです。精神的な成長をとげる人とか、残念なことに精神的に後退する人もいて、性格が変わったかに見えることはあります。ですが、どちらであっても生まれついてのタイプは一生変わりません。



さて、若殿のご乱行をやめさせようと、家臣の小野角衛門ら3名が教育にあたったが、家臣が諌めても聴くような人物ではなかった…。諫言の書である『おそれながら言上』、またの名を『小野諌草』が遺されて、水戸の跡継ぎの悪しき行状が後世に伝えられています。

★『小野諌草』

http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/rekisi/onogentouisamegusa.

当時、戦国期の余波があり、「辻斬り」とか「試し切り」がまだあったようですが、殺人を犯すなど当時でも問題視されていました。素行不良の旗本が罰せられて切腹になった例もあるとか。

それなのに水戸の跡取りは見逃された。たぶんそれは、光圀が7歳のおりに、德川三代将軍の家光のお声がかりで跡継ぎと決められていたからでしょう。あるいは、うまく隠しおおせたのか…。

光圀は34歳で水戸の二代目城主になりますが、お手付きの女中が妊娠したと知り、家来の妻として与えたと書かれている言行録『玄桐筆記』などもある。

老いてもからも、暴力的で女好き、浪費家で遊び好き、贅沢好きのやりたい放題という性格は変わっていません。

次に、
ウィキペディアには「幕府より隠居の許可がおり」となっていますが、正しくは五代将軍綱吉から命ぜられて隠居の身(62)になったのです。幕府批判が多かったからと言われていますが、行状の悪さも知られていました。

幕府は常に全国の大名を探索していたのであり、「女色にヒタリタマヒ、密カニ悪所へ向カヒ、常に酒宴遊興甚だし」と報告されている。

光圀の
隠居所(西山荘)は、現在残っている質素なものではなかったみたいです。光圀の死後に火事で消失しましたが、それ以前は60人もの家臣と家族、女中や下男なども居る豪壮な御殿でした。

桃源遺事』にある西山山荘の見取り図が載っており、簡素な建物ではなさそうです。(注*光圀に関する逸話などを集大成したもので元禄14年(1701)に編纂)

ところで、光圀68歳のおりの事件を知れば、光圀がどのような人物なのかわかろうというものです。元禄七年(1697)11月、幕府老中や諸大名や旗本を招いて、小石川の水戸邸で能興業があり、光圀も舞うことになっていた。その舞台裏の「鏡の間」で事件は起きた。

光圀と家老の藤井紋太夫の二人だけの一室で、異変が起こった。藤井紋太夫が刺殺されたのである。「口論となり、ついこんなことになってしまった」とだけ告げて、光圀はいつもとすこしも変わらぬ態度で冗談など言いつつ自室へ帰っていったとあります。(青字は、鈴木一夫著『水戸黄門』から転載したもの)


当時、隣室にいた光圀の側近が書き残した『玄桐筆記』に載っています。手打ち事件について、光圀は一切説明も弁解もしなかったとありますが、江戸の武家社会では取沙汰されていた。

光圀は事件の直後に、家臣らに宛てた手紙には、「不慮の仕合わせ、老後の不調法」のために起きてしまったことで、「何とも申すべきようもなし」と、口論のあげくつい手にかけてしまった老人のしくじりだったと陳弁し押し通す姿勢が一貫している。

しかし、『玄桐筆記』には、5、6日前に光圀は「鏡の間」を実地に検分し、わざわざ屏風の位置を確認しているのだから、計画的行動だったことは明らかだった…。事件の真相を知るための資料は皆無で、状況証拠になるような文書や記録すらない。真実は暗々裡にほうむり去られた

なお、藤井紋太夫は旗本の出で、幼いころから利発だと評判で、光圀から乞われて小姓になり、とんとん拍子に出世して大老になったという秀才で、光圀から最も信頼されていた人物です。
信頼しており、かつ大老という高い地位の家臣を呼び出して、密室で刺し殺すなど、悪質で重要な懸案を光圀は抱えていたと考えられます。

計画的な殺害であれば、「口論となり、ついこんなことになって」とか「老人のしくじり」とはならないはずです。大老である藤井の行為をとがめるためであれば、表だってそれを批難したはずです。事件後になっても殺した相手のことを批難しないなど不自然です。光圀の気質からしても不可解です。

想像するに、口封じのために呼び出して殺した、と考えるとスムーズに理解できます。光圀が秘していた悪事か、または、あってはならない重大な過失があったのか、いずれにしても藤井に知られたので、殺すしかなかったのではと。

光圀は絶対に真相が明かせないのだ。よほどのことだったに違いない。殺害直後の様子や、そのあとの対応からは、「名君」とは到底考えられない不遜さがみられます。

もしも、「家臣を殺すしかないと追い詰められたのは自分の過ちであるとして、それを認めて許しを乞うた」のであれば、名君と呼ばれても、さほど違和を感じないかもしれない。が、そうではない。

家来の刺殺は大したことではないと、ちょっとした過失だ、というような対応です。完璧な完全犯罪であり、すべて闇に葬ったのだ。「暗君」というよりも、「悪人」だと私は思う。

当時は城主が家臣を手打ちすることよくあったらしいのですが…。それでも、「他のことで、さすがに名君だ」と考えられたとしても、この一件だけで、「名君とは呼べない」と私はみます。

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