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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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旧姓「久野」のルーツを探るために、あちこちに首を突っ込んで調べていましたが、いまだにわからないままです。

加木屋久野氏の系図には先祖は駿河国の出だとあり、そのため駿州出身の人物がいないかと、ネットや本なども取り寄せて探したのですが、残念ながら見つかりません。

ただし、久野氏は1603~1863年まで、加木屋町にある熊野神社の神職を務めており、また、庄屋だったことは、たぶん事実なのだと思います


ごく最近になってネットで見つけたものとして、日本福祉大学が調べた「近世の尾張国知多郡における里修験①の活動と村…加木屋村を中心に…」という長いタイトルです。

江戸幕府は、1613年(慶長18年)に「修験道法度②」を定めて、修験者③が全国各地を遊行することを禁止して、町や村へ定着させることを図ったみたいです。

尾張国内には、数百人規模の修験者が存在していたようで、村の信徒に支えられていたみたいです。

たとえば、妙玄という名の修験者は貧しかったらしく、大峰山で修行ができなかったが、加木屋の村人33人が、金3両2分と、その他の費用を援助したみたいです。

その結果、正式に修験者として父親の名跡を相続できたあります。何という思いやりのある優しい人たちなのかと、ちょっと嬉しくなるお話しです。 つづく

里修験とは、修験者が地域に定住するようになり一般の村人にとっては身近な存在になり、町や村に定着した修験者のことを「里修験」と呼ばれるようになった。

➁法度とは、禁止させる法律。

 
③修験者とは、修験道(しゅげんどう)といい山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰で、山伏ともいう。

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