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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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よくよく調べてみたら、宝姫王(皇極・斉明)の祖父である桜井皇子は、欽明天皇の息子で、かつ推古天皇とは母親が同じですから、姉弟という関係です。母が同じということは、母系社会で妻問婚でしたから、推古天皇と同じ屋敷に住んだり、互いによく行き来するような血縁関係です。

推古天皇は才色兼備だったようで、亡くなったのは74歳で、当時ならかなりの長寿です。宝姫王より40歳年上です。たぶん、宝姫王は幼い頃から推古天皇から声をかけられたり可愛がられた可能性があります


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さて、宝姫王(皇極・斉明)をタイプ8だと見て、その気質から、彼女の生き方や当時の環境の中での対処方を考えてみました。彼女の生涯がどういうものだったか、その軌跡を確かめながらストーリーを描いてみようと思います。

宝姫王594年に誕生です。推古天皇が39歳で即位(593)して、74歳で亡くなられた(628)ことを身近に見ていたはずです。権力志向の強い気質ですから、推古天皇のことは、憧れというよりは目標になる人物だったと考えられます。

宝姫王は、皇族とはいっても身分的にはかなりの下位ですから、皇后にはなれても、推古天皇のような女帝になれる可能性は低いのですが、たぶん、「絶対になるぞ!」と機会を探していたと考えられます。十代の頃から周囲から婚姻をすべきだと迫られても、その気になれず拒否していました。(と、思う)

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斉明天皇のエニアタイプは、タイプ8の可能性があると見ていますが、もう少し取り上げます。前回、略歴みたいなものを載せていますが、実にしばしば遷幸(新しい都へ天皇が移ること)をしており、さまざまなところに行幸しています。
温泉地に数か月も長逗留しており、かなりの温泉好きのようです。さらに、他国の使節やその他の人たちを饗応することを好むなど、高齢なのにやる気満々という印象で、エネルギッシュな女帝と言えそうです。

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天武天皇のエニアタイプは、タイプ8と判定できたものと考えていますが、実は、その母上である皇極(=斉明天皇、二度も即位して名も二つ)も、タイプ8ではないかと予想しています。親子なのですから、タイプ8という気質を継承したものと考えられます。

仮に、タイプ8だとしたら、奈良時代以前の古代史として学んだことの中で、事実では無くなるところが出てくるかもしれません。ゆえに、この女帝のエニアタイプをさきに絞る必要があります。
まずはウィキペディアにある記事(青字)を取り上げて、エニアタイプを絞ろうと思います。略歴的なものを転載しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87



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前回、「天武天皇は即位して後、一人も大臣を置かず、重臣に政務を委ねることもない独裁権力者になった」ので、そこにタイプ8らしさを感じられたと言えます。ちなみに、当会のホームページには、「タイプ8の標準的な特長」を以下のように示しています。

タイプ8の標準的な特長
http://www.mirai.ne.jp/~ryutou-m/cgi-bin/page05/05-8.htm

つまり、タイプ8の標準的特長として、権力指向がある・もっとも指導力がある・何事も独断で決める、としています。ですから、天皇などに即位すれば、独裁権力者になるのは必然的です。また、臣下や部下たちを率いるとしたら、「白黒や賞罰をはっきりとつける」という傾向があります。そして、ウィキペディアに載っている中(青字)に、それらしきものを見つけました。

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天武天皇がタイプ8であれば、「女性を強く意識するタイプ(873)」であり、それならば女好きだということが記録に残っているはずです。調べてみたら、11人の女性との間に18人の子どもを得ていました。

でも、一見、女好きに入れられるところですが、奈良時代以前であれば、これくらいの妻を持っても「女好き」には入らないことも考えられます。

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このところ天武天皇とか、その母で二度も天皇位に就いた皇極天皇(=斉明天皇)のことを調べています。十代の頃から古代史への関心は強かったほうだと思うのですが、天武天皇のエニアタイプがタイプ8ではないかと予想してからは興味津々になりました。

このブログでも以前取り上げていますが、大海人皇子(天武天皇)が吉野へ出家する際に、見送った重臣の一人が語った、「翼をつけた虎を野に放したようなものだ」と伝えられています。で、実物のタイプ8の男性に会ったことがあれば、「普通じゃない、虎みたい」だってことになる…。



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橋本治さんの著作はかなり以前に一冊読んだ覚えがありますが、タイトルも忘れてしまいました。あまり面白くなかったのでしょう。ですが、最近になって読んだ橋本治さんの著書は面白くて「夢中」と言ってもいいくらいです。

数日前に読み終えたのは、『だめだし 日本語論』で、かなり集中して読めたので数時間で読了です。それほどに面白かったということでしょう。
昨日は雨で出かけられなくて、これ幸いとばかり、『性のタブーのない日本』を読みだしたら、他のことには目もくれず3時間内で読了です。読みやすくてわかりやすい文章なので、中高生でも大丈夫だと思います

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いつものように、ウィキに載っている「人物・逸話」から、気質(エニアタイプ)を絞っていきたいと思います。

まず、家康は「武術の達人」だったと書いてありますが、それはどうかなと。偉大な人物だと知られると、全てのことで過大に評価されるものです。とはいえ、戦乱の世なのですから、自らの身を守るために武術に励むのは必然的なことです。

また、「好学の士」とありますが、どれほどの学問好きだったのか? 「多趣味」とあるところはたぶん事実なのではと思うのですが。「鷹狩り・健康オタク・薬作り・猿楽・囲碁・将棋・香道」です。

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日本人には、よく知られていますよね。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」 

他の二人と比べての家康の人柄を指していますが、これでは攻撃タイプ(825)では無さそうって感じがしませんか。

戦乱の世ともなれば攻撃的な気質でなくては指導的な立場に立てないだろうと…。少しでも当会のエニア理論を学べばわかるところです。で、戦乱期は治まり、世襲になった代々の将軍のタイプを予想するならば、たぶん、攻撃タイプ以外の男性が登場するのではとみました。

実際にも、二代目秀忠はタイプ4っぽく(まだ判定できない)で、三代目家光はタイプ7w8で、四代目家綱はタイプ4と判定できました。それならば、調和タイプ(369)の将軍も出てきてもよさそうです。とりあえず、かの有名な信長と秀吉の人柄を伝えるものが以下です。


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