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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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さて、宝姫王は弟の孝徳天皇に譲位し、かつ息子の中大兄皇子を孝徳の後継者に命じました。ですが、政務の多くは孝徳と皇子に任せましたが、重要だと認められるものは宝姫王が決めていたと考えられます。

ところが、宝姫王は「入鹿が目の前で殺されたのを見て、ショックを受けて天皇の地位を投げ出した」と述べている著書(橋本治著『日本の女帝の物語』に掲載)があります。
しかし、彼女がタイプ8であれば、彼女が計画して主導したのですからショックになるはずもなく、そうでなかったとしても、そのことで天皇の地位を投げ出すなどは考えられない人間です。


大兄皇子は当時1920歳ですから、皇位に就かせるには若すぎると見て、弟に継がせることにしたのかもしれません。ですが、一度、権力を手に入れた人間は、けっして手放すようなことはしません。

むろん、宝姫王が乞われて即位したのであれば別ですが。そうでなければ、手放すより他に手がないとしたら、自分の言いなりになる人間に一応譲りつつも、実質は権力の座から降りることはありません。

孝徳天皇は、姉の宝姫王より2歳年下ですが、二人の性格は全く似ていません。「日本書紀」に、孝徳の人となりとして「柔仁にして儒を好む」とあります。また、評価はかなり低いようです。「柔仁」の意味を調べても分からないのですが、どうも傲慢不遜な気質ではなさそうです。

大化の改新後にできた国政諮問機関の国博士である僧の旻(みん)が、病に臥し、孝徳が病床を見舞った折、「師が亡くなれば自分もすぐに後を追う」と嘆き悲しんだとあります。孝徳57歳の時のことです。

10代ならいざ知らず、この年齢で師に依存的だとしたら、攻撃タイプ(825)にはあり得ないところです。ただし、攻撃タイプであったとしても、タイプ2の中には気弱そうに見え、かつ依存的にもなる人間は存在しますから、孝徳はタイプ2の可能性があるかもしれません。その他のタイプも可能性はあります。なお、孝徳がそのような男に見えていたら、宝姫王からは、自分の思うままに操れると考えたでしょう。

ちなみに、乙巳の変というクーデターの首謀者は、孝徳とその一派だと見ている古代史研究者がいます。なぜなら、経緯はどうあれ軽皇子が即位している事実から見るならば、クーデターの首謀者は軽皇子とその一派と見るのが最も妥当だと言うのです。確かにトップ権力者に成れたのは孝徳ですからね。(遠山美都男著の『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』に掲載されている)

さらに、孝徳は難波宮(大阪市中央区)を造営して、645年に都と定めました。ですが、653年に皇太子(中大兄皇子)が飛鳥に遷ることを求めましたが、孝徳天皇は許しません。そこで皇太子や皇祖母尊(宝姫)、大海人皇子はじめ公卿や臣下の大半を引き連れて、突如、飛鳥の宮に移っています。なんと、孝徳の皇后まで、夫を捨てて移ったようです。

孝徳は、それを恨んで国位(クニ)を捨て去りたいと思って宮を山碕(京都府の大山崎?)に作らせ、そして、以下の歌を妻(間人皇后)に送ったようです。

鉗(カナキ)着け 吾(ア)が飼ふ駒(コマ)は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか (鉗という逃げないように首にはめる木を付けて飼っていた馬を、他の人が見つけて奪っていった)

なにやら、惨めったらしく情けない歌に見えませんか。ひとり取り残された孝徳は病に臥して、翌年654年に亡くなります。憤死したと書かれていた本もあります。これでは、クーデターという大それたことを考え出す人間とは思えません。

母の宝姫王がタイプ8であれば、「天皇が許さなくとも何ものか、みなのもの、我に従い、飛鳥宮に移るべし」と、一言いえば、それだけで皇族も臣下も一斉に命じられた通りに従うでしょう。これも、中大兄皇子が主導したと見られているのですが、単に母親の命令を受けて、他の者たちに命じただけと考えられるのです。

さて、孝徳が天皇位(645)に就いてから10年くらい経っており、政務に自信をつけたのではないかと思われます。ゆえに操れると思った人間が、そうではなくなったのかどうか、それと確かめるために遷都を求めたと考えられます。つまり、この遷都は宝姫が謀ったことではないかと。

当時、天皇の代が変われば新たな宮をつくり遷都しますが、それは一代限りのものでした。しかし、難波宮は、それまでなかった大規模なもので、幾代も受け継ぐことができる立派な宮殿です。

難波宮http://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/naniwa_gaiyou/ikou_03_01_02.html

宝姫王は、難波宮を見てから、弟が軟弱に見えていたのに…「なかなかやるな…」と見直しつつも危険を感じて手を打ったと考えられるのです。そして、その手の効き目は大したものです。利き過ぎたくらいです。

孝徳が病に臥したという連絡を受けて、宝姫王は皇族と臣下らを連れて見舞いに行きました。しかし、孝徳は病から回復することなく、わびしく崩御しました。つづく…


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