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約2ヶ月前に箪笥を整理している時、父の軍隊手帳を見つけました。長くかえりみることがなかったので、箪笥の奥に隠れていたものです。
手帳はボロボロですが、台風に遭って水濡れになったためだと聞いています。
終戦記念日の今日、この手帳のことを取り上げてみようと思い立ちました。でも、軍隊手帳なるものをまじまじと観察したのははじめてのことです。
最初のページに「勅諭」が印刷されていますが、なんと「勅諭」が3つもあります。1つ目は、明治15年1月4日の日付になっています。調べてみると、その日に、「陸海軍に軍人勅諭を発布」がされたみたいです。
参謀本部長の山県有朋が西周(にしあまね)に起草させたものだそうです。その当時のことを描いた画を転載しています。また、以下に勅諭の全文が載っています。
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/Gunzin.tyokuyu.html
2つ目は、大正元年7月31日付けの勅諭です。明治天皇が30日に崩御して、大正に改元した日です。3つ目は、昭和元年12月28日づけの勅諭です。大正天皇が25日に崩御して、昭和に改元した日です。
つまり、明治・大正・昭和の3代の天皇がそれぞれに勅諭を出しています。しかも、この3つの勅諭は赤字で印刷されています。赤紙ってわけです。これ以外はみな黒字で印刷されています。
勅諭の次に載っていたのは、「勅語」です。ちなみに、勅諭は勅語より訓示的なものなんだそうです。大正3年11月3日下賜とあります。
その後にも全部で8項目あって、本人が署名や記入するようになっています。ですから、父の直筆の署名が見えます。よく見知っています。懐かしいなつかしい字です。
表紙の布は麻らしく、紙は丈夫な薄い和紙で作られています。水濡れに遭っても、印刷された字は読めます。
父の軍隊手帳には載っていませんでしたが、教育勅語と戦陣訓が載っているものもあると聞いています。父より歳若い兵士たちの手帳にあるそうです。
この戦陣訓には、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めをうけず」というものがあります。沖縄で集団自決したり、女学生たちが自害した、その大元になる訓示です。
ところで、父が最初に配属されたのは、「第三師団」で、 部隊は「輜重兵第三大隊第一中隊」で、二等兵でした。
ちなみに、師団とは6千人から2万人程度の兵員規模の作戦基本部隊のことです。これも調べてみてはじめて知ったことなんですが。
そして、輜重兵(しちょうへい)とは、兵站(へいたん)と言って、主に陸軍の後方支援をすることで、兵器や燃料や食糧を輸送や補給したり、兵器の修理なども行う兵科のことです。
兵役には付きましたが、父はそのころ病弱で結核を患ったので、国内での「農耕勤務隊」に転属されました。外国で敵と対峙して人を殺すというような体験はしていないようです。
でも、内地で農耕作業に携わるのは屈辱的なことだったみたいです。お国のために戦えない兵士では、周囲からの風当たりが強く、辛い思いをしたのではと思います。
結核を患っても病院に入院できるものではなく、きつい農作業だったみたいです。父は寡黙なので、そういう話をしたところは見たことも 聞いたこともありません。他の体験者が教えてくれたことです。
また、この手帳を見ると、そこには農耕作業に従事していた、と、はっきりと書かれていました。こうして、手帳を写真に撮って、細かく調べていくと、まざまざと、なんだか幻影のようなものが見えてくるような感じです。
父はどんな思いで、この手帳とつきあい署名したのだろうか。勅諭は暗記したのだろうか。何も語らないままに逝ってしまったので、もう尋ねることも、確かめることもできません。
最近まで軍隊手帳のことをかえりみることもなかったので、申し訳ない気持ちで一杯になります。これを書きまとめて、やっと少し気持ちが収まってきましたが…。
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