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そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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今日は、家康と家光の間に挟まって影が薄いといわれる二代目秀忠を取り上げます。影が薄ければ、大した情報は得られないだろうと思っていましたが、平和な社会ともなれば記録が盛んになるのでしょうね。

さて、まずは山本博文・著『徳川幕府の礎を築いた夫婦、お江と秀忠』小郷』(幻冬舎新書)に載っているものです。
秀忠12歳の頃に、豊臣秀吉に招かれて、正月7日に聚楽第に迎え入れられたが、秀吉の妻である北政所が秀忠の頭に櫛を入れ整えた。着物や袴も秀吉が用意して着せた。「大納言(家康)はよい子を持たれているな。歳の割にはおとなしくて、さぞお気に入りの子であろう…以下略」


次はウィキベディアにも載っているものです。
(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき」

現代語ならば、「秀忠は幼い頃から争い事を好まず、謙虚に生き、仁徳があり、思慮深く、父君の命令に従い逆らうことはなかった」

これらの元記事は『徳川実紀』にあるものですが、おとなしい気質と見てよいかもしれません。次は、『名将言行録』に載っているものです。

「13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入して大騒ぎになったが、秀忠は騒がず落ち着いた様子で講義を受けつづけていた」

以下は、ウィキペディアにも載っていますが、上記とよく似たエピソードです。冷静で思慮深いところがありそうです。

能を鑑賞している時に、地震が起きたが、冷静に素早く指示を行い、混乱と被害を最少限に抑えた。

『徳川実紀』には、家康はある時、側近の本田正信を召し、「秀忠はあまり律義すぎる。人は律義のみではならぬものだ」と言ったとあります。

事実、律義すぎるとしたら、タイプ1とタイプ4から探すところです。2w1で1のウイングが重い人の可能性もあります。ここでは載せていませんが、その他からも律義なところはあったみたいです。そして、妻である正室に頭が上がらなかったと言われています。

秀忠22歳頃、ある女性との間に男子(長丸)が産まれますが、それは城外でのことで、しかも2歳で亡くなっています。記録には「家女」とあるだけで身分が低かったようです。同じ時期に、正室との間に女子(勝姫)が産まれていますから、正室に気を使っていたと考えられるところです。

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歳の時、城女中との間にも男子が産まれましたが、やはり城外に追いやり、しばらくして
養子に出したみたいです。男子は、のちに名君と呼ばれるようになる保科正之です。このように、秀忠が側室を持つことは無かったので、恐妻家だと見られることもあるとか。

また、正室お江(おごう)は、長男の秀忠でなく、次男の忠長を偏愛して、一時は跡取りになるのではという観測があり、それは秀忠がお江に引きずられていたからと、史料が伝えているようです。

となれば、妻はたぶん攻撃タイプ(825)と考えられ、夫である秀忠は攻撃タイプ以外ではないかと予想されます。そして、これまで見たところでは、秀忠は「おとなしくて従順だが、律義で、思慮深くて冷静」という気質になるような…。はたして何タイプが該当するのでしょうか。あなたの予想は?  (続く)

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