そこに、いつごろ創建されたのかわからない古い塔が、一面に生い茂った葦原に囲まれて立ち尽くしている。風が吹くと葦原がざわざわに唸りだす。なぜか、懐かしさに一杯になる、あの塔…。ずっと探し続けている。塔の秘密を解き明かすのは誰? 
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  読者からの便りがあり、ブログの字が小さくて読みにくいようです。それで今回より少し大きめにしています。

 さて、タイトルに関してですがよく報道されます。かなりしばしばです。今日も見つかりました。
「秋葉原の無差別殺傷事件は8日、発生から1カ月を迎える。加藤智大(ともひろ)容疑者(25)は、最近になってようやく、捜査本部の調べに、後悔していると話し始めたが、被害者への明確な謝罪はいまだにない」
 この言い方にとても違和を感じるのですが、それは私だけなのでしょうか? 私は少数派になるのでしょうか。自分の過失で軽い交通事故を起こしてしまったら、すぐに素直に謝罪できると思います。たとえば、脇見運転をして相手の車体をへこませ、運転者にも軽い打撲を負わせたというくらいなら、ほとんどの人たちが素直に謝れるのではないでしょうか。

 自分の過失だと自覚していても謝れない不届き者もいるかもしれませんが、それは論外です。そんな人間と、幾人もの人間を殺傷した者とを同列に扱うことはできません。

 それと同じで、上記のような過失と重罪を、同列に扱っていることにならないでしょうか。どうも奇異に感じるものです。秋葉原の無差別殺傷事件のようなものは、一口に「罪」とはいっても「重罪」で、すぐに謝罪できるとしたら、かえって疑ってしまいます。

 私からは、すぐに謝罪する人がいたら、罪の意識が低すぎるように感じます。なぜか、多くの人たちが、「謝罪」というものをすぐに求めます。とりあえず、まずは「謝れ!」で、その後でなら、「話し合ってもいいぞ!」という感じです。

 それが日本的な文化というならば、私みたいなことを言い出すと、お笑い芸人みたいに「お前は欧米か!」(笑い)と言われてしまうのでしょうか。親たちも、子どもが悪戯したりウソをつくと、すぐに謝らせようとします。しかし、謝ったほうが早く解放されると、子どもたちも分かっているのではないでしょうか。

 重大犯罪は、軽い交通事故とか子どもの悪戯ではないのですから、謝罪云々と取り上げるのはおかしいと思ってしまうのです。犯人自身も、事の重大さにを前にして、謝罪するなどということが全く頭に浮かんでこないのだろうと予想するのです。そのほうが自然だと思うほどです。

 しかし、一般では、悪評になるようです。とにかく謝罪を口にすれば、罪が軽減されそうに見えます。裁判官の心証もよいものになりそうです。そうなると、来年からの陪審員制では、裁判員(陪審員)から、「心証よい」と思われるような立ち居振る舞いをしたほうが、お得ということになってしまいます。

 要領のいい人のほうが罪が軽くなる、というおかしなことにならないでしょうか。実際、心証云々と判決文に書いていた裁判官がいました。
 実におかしな慣習だと思うのです。しかし、奥ゆかしい礼儀、または慣習だと思っている人たちがたくさんいるので、このような報道記事が載るのでしょうか。う~ん少数派は浮き上がる! 

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